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三島由紀夫氏はなぜ自決したのか?『文化防衛論』からの解明《4、全体のまとめ及び最終回》

★『豊饒の海』なぞの結末を解明する⇒ YouTube動画 です。note記事は、《1》.アラヤ識
★『文化防衛論』の動画→【1】【2】【3. まとめと結論
まず動画をざっとご覧いただいて、記事《》~《》セットのマガジン、
もしくは《》の記事 プラス  《》~《》3本セットのマガジンを、お勧めします。
【動画】では、正確な論理よりも、全体の把握をめざしました。
この記事は、後半部分で新たな視点によって三島文学を眺望します。

★この記事《》だけで、全四部のボリュームの半分以上です。《》の前半の無料部分に、《》~《》のダイジェストを載せましたので、
まずそこをお読み頂いて、お気にめせば、マガジンをご検討頂ければ、と存じます。
1》~《3》でも見た画像は、出典を後にまとめて表示します。
ちくま文庫の【頁】を示し、出典のない太字の三島氏自身の言葉は、以前に出典を示したものです。

三島氏には、自らの生命よりもっと重大な、使命があった。日本文化の再生!である。現代のモノとカネだけの日本人の生き方を、死をもっていさめた、とこの論の冒頭で述べました。

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★1 これまでに見た、三島氏自らの言葉・・・

文化というのは生活のしかたのことである。文学は一時代の文化を形成する端緒となって、日本人の精神を形づくった。文化を守るとは最終的にアイデンティティーを守ること文化への不遜な態度こそ戦争の緒でありませう。そして日本文化とは「菊と刀」の永遠の連環。戦時中は「菊」の優雅が絶たれて、敗戦後は「刀」が絶たれ、欲に流されてだらしなさが社会に現れている。・・・これらから、言行一致、文学でつかんだ「菊と刀」の美を、モノとカネの欲にまみれた今の日本に再生する。
決死の行動への論理を見ました。

現代は強さがいじめられている時代なんです。だから強さをまず復活するのが自分の課題だとぼくはそれしか考えていないんです。自決する七日前の言葉で、「刀」武士の魂、強さの美、その復活のための死、と述べました。

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『文化防衛論』の書き出しは、昭和元禄の時代を、近松、芭蕉、西鶴の文学によって一望して、モノとカネだけのだらしなさが嘆かれる。文化は形成されたモノとして見られている。そして、カネの呪い、緑色のヘビの呪いにかかってしまった日本。アメリカのせい、他国のせいでない。
他人のせい、政府や官僚のせいにするルサンチマンが、日本をすっかり醜くしてしまった。
今、何を守ればいいんだと。僕はね結局、文化だと思うんだ。本質的な問題は。

》では、「菊」の優雅と「刀」強さの美。日本文化はを頂点とする、その三島の文章から、日本文化の具体像が明示されました。
精神結晶したフォルム〉、行動すべてが文化、武士道は倫理と美の一体、生活と芸術の一致。伊勢神宮の式年遷宮のようにオリジナルとコピーを区別しないから、今上陛下はすべて元の天照大神に、そのたびに帰ってゆく大嘗会と同時に、天照大神に直結しちゃうんです
【全集40巻752頁、中公文庫もあり】
源氏物語が西鶴の「好色一代男」にパロディー化されたように、高貴から卑俗まで、その全体性をもって、日本文化は再帰する。再び帰ったが、新たに創造する主体に、美の生命を連続させる。

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そして日本文化の現象として八咫鏡(やたのかがみ)の秘義が説かれた。
岩戸隠れをされた天照大神は、高貴たるべき神楽、卑俗きわまる舞いへの哄笑、生命を連続させるエロティシズム、その全体性に「あやし」と御顔をのぞかせて、鏡を見返された。高貴から卑俗まで、その全体性に、エロティシズムの力によって生きる文化に、見る主体が見返される。
自らの行いを省みる、この日本文化。

三島の蔵書に「判断力批判」があった。美、善、崇高、快感。それらの区分を、カントが明確にした。
大神は、弟スサノオのと善に反した行いに悲しみ自己否定されて岩戸に隠れられた。その融和は、全体性への笑いでなされた。
三島は菊の笑い刀の悲しみ、とこれを言う。
スサノオは、またもや追放されて下界で戦う。その前には、亡き母イザナミを慕って青山を泣き枯らして追放されたのだ。
ドイツ哲学の達成、美と善と崇高の区分とは異なって、すべては神話に包摂されている。【78頁】

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⇧《》の後半部分に載せた、八咫鏡の秘義。右に、榊にゆわえられた鏡が描かれて、大神の視線はそこに送られるようだ。

そして三島は言った。ぼくが現代ヨーロッパの思想家でいちばん親近感をもっている人がバタイユで、彼は死とエロティシズムとのもっとも深い類縁関係を説いているんです。
バタイユの、死して連続させる生命。
文化自体が自己放棄を要求することによって、自己の超越をうながす。文化は自己の安全を守るというエゴイズムからの脱却を必然的に示唆する。ほとんど、自決の宣告ではないか。

》しかし論理だけで人は死ねるのか?これまでに触れた、三島が出演した2本の映画では、いずれも死が演じられる。主演監督脚本製作した「憂国」は、あまりにも凄惨で正視できませんが、死=恋=美、まさにバタイユの、禁vs違反 の魅惑、ワーグナーの楽劇そのまま、と感じられます。

なぜ、死=美 なのかバタイユが説いた、死と生を連続させるエロティシズムの魅惑を、なぜ三島氏はこうも切実に、胸に感受したのか

それは、昭和6年から20年の敗戦まで、6歳から20歳まで、日本を塗りつぶした軍国主義、「菊」の優雅を絶ち、平和愛好する【35頁】日本文化を絶った軍国主義の時代に、アイデンティティを形成したからだ。そう私の考えを述べました。悲惨な戦局、若い男は戦争で死ぬのだと、それが美しい人生だと、日本人すべてが言った時代。身体が弱かったから、勇ましい戦死などムリだと、社会への不適応に悩みぬいた。

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青年は、いつも、いつの時代も、悩む。世の役に立てるのか?これまで育ててくれた父母、恩師、友人らやこの社会。この感謝を、私は恩返しする生き方ができるか?
私よりも若い人々に贈るべき、輝かしい日本の未来を築けるのか?

さきに見た、⇧左の写真の若者は、そんな覚悟で出征して戦地で闘ったにちがいない。特攻隊の青年らも。
戦艦大和は、沖縄を攻めるアメリカ軍と戦うため、三千三百の将兵とともに出撃し、その九割が戦死した。また、沖縄の近海に二千の特攻機が散った。特攻機の英霊四千柱の、過半は沖縄をめがけて飛び立った。
知覧基地から出撃する振武隊首里城。ともにWikipedia。

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アイヌや沖縄に、ことさら異民族の問題を言いたてるとき、政府や軍部が悪とされる。他人のせいにし、政府からカネを出させ、アメリカ基地も自衛隊も悪だと言われる。
自らの行い見返り、省みる八咫鏡の秘義。和を貴しとし、人のふり見て我がふり直せ、この日本文化に反している。
美と平和愛好する日本人らしくない、醜い行いだ。

他人の悪を言いたててカネを出させる。そうでなく、自らの心に痛みを感受して、以和為貴、お互いの伝統の文化を敬う。罪を憎んで人を憎まず、この、和をづくる魂。
日本人の魂が、和を形にする行いによって、世界に平和と幸福を樹立できる。
⇩旧・一万円札の聖徳太子。楷書の以和為貴は、出典を照会中。

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他人のせい、政府や軍部のせい。軍と政府だけが悪くて、市民や兵らは愚かで善だったから、省みる点など何も無い、のか?
明治23年、帝国議会の初の選挙が行われて、昭和17年までに選挙が21回、普通選挙は6回あった。投票率はほぼ九割、普通選挙になっても八割だった。
票をカネで売ったから、が実態なのだが、そうやって軍国主義をあと押ししたのだ。
軍や政府だけに罪を押しつけて、それで平和で幸福な国を築けるのか?

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今の日本を予言するかに、三島は半世紀まえに言った。日本にこれから危機が起こるとすれば間接侵略形態においてだらう。【「栄誉の絆でつなげ菊と刀」評論全集Ⅲ巻463頁】弱者の思想によって、憎悪、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の材料に使い、これらの最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向ける。
日本人の心を操作して、内面から国を侵略するのだ。【「反革命宣言」ちくま文庫の11頁】
これまで世界史で、異民族は戦争や政権の転覆に、いつも利用されて来た。
一民族一国家になれ切って、のほほんと暮らす日本人のやさしさにつけ込んで、異民族問題を言い立てて、日本の分断をねらっている。

われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかっている。この間接侵略といかに闘うのか?魂がしっかりしてゐなければ、いくら武器を持っても何にもならない極端にいふならば、武器は日本刀でもいい。【「栄誉の絆で・・・」463頁】

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▲ここまで《1》~《3》で見た画像の出典。
雪晴れの金閣・・・『金閣寺』第三章「彼のひろい肩幅のうしろには、雪をいただいた金閣がかがやき、洗われたように青い冬空が潤んでいた。」平凡社 世界大百科事典1972「京都」の項、カラー図版。
自決の2ヵ月前まで、大阪万博が高度成長を謳歌した。太陽の塔(日刊工業新聞オンライン2018.2.6)。スタンプ帳(まんだらけ通販)。夜景(ビーチリゾート氏)。
源氏物語絵巻、猫による悲恋のきっかけ(Wikipedia)。源氏物語をパロディーにして元禄の世を活写した『好色一代男』の挿絵(岩波文庫の表紙)。
春斎年昌「岩戸神楽之起顕」明治20(Wikipedia)。
出征の見送りは、鎮魂の旧 大日本帝國陸海軍日本財団 図書館
同じく松茂町歴史民俗資料館。三島の令妹も、敗戦のとき皇居前で泣いたという。西日本新聞2014.8.15
北斎はORIEoriginal。高度成長による変貌は、じゃらん

★2 日本を守る、とは何か?・・

日本人を守れ、と言っても、オマエなんかに守ってもらいたくない、と言いながら、いざとなると泣きついて来るのがいる。拉致の悲惨に何もできず、救出は進まず、憲法のどこに原因があったか、論じもしない。

国土を守れ、と言うが、共産党の政権になったら親玉が国境を破壊して、かえって国土が広がるかも知れない。みんな日本人です、おかわいそうな人を救え、と言われ、それはそうだと思ううち、そういう所からスーッと水が入って来て、間接侵略されて、非常に危険だ。

そうすると何を守ればいいんだと。僕はね結局、文化だと思うんだ。本質的な問題は。
日本を守る。それは、文化を守る。生命や土地やモノやカネ、政治体制よりも、もっと強い、すべてを生む精神のフォルム>文化を守る。【「栄誉の絆で・・・」459頁。「源泉の感情」河出文庫2006.152,155頁】

★3 文化の、時間の連続。それは祭祀。・・・

日本文化は、時間空間、ふたつの連続に貫かれる。
時間の連続とは、美の伝統を祈る祭祀、はてしなく神話から続く、祭祀の連続である。
美を希求し、美が行われる国を願う、そんな願いを、パワーアップしたのが祈り、である。
祈り。世界のあらゆる民族が、こうありたいと魂を結集させて文明を形づくった。あらゆる文明は、神権政治によって形成された。
祈りには、願いとはケタ違いのパワーが、籠められつづける。

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⇧令和元年、即位礼正殿の儀のとき。皇居の虹は、日刊スポーツ2019.10.22。富士の初冠雪は、あめちゃん©、Oct22,2019

日本で唯一、ただ一人、モノやカネから完全に隔絶されて、モノやカネへのエゴイズムにまったく囚われず、
ただひたすら祈り、祭祀にパワーを集中させるお方は、どなたか?今上陛下ただおひとり、である。
つまり天皇というのは、国家や国民のエゴイズムのいちばん反極にある。
そういう意味で、天皇が尊いその根本にあるのは、とにかくお祭りだお祭りお祭りお祭りお祭り――それだけだ。これが僕の天皇論の概略です。【『源泉の感情』178頁】

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⇧即位礼正殿の儀。左は、高御座と御帳台。右は平成元年11月12日、正殿前の中庭の光景。左右とも、日本経済新聞 電子版2019.10.22。

祭祀は、神話にかすむ太古から、国の平安、民をうるおす国政を祈りつづけ、この今も、皇室の核心でありつづける。憲法、三曰にこう説かれた。
「天覆ひて地は載せて、四時が順(めぐ) り行き、万(よろず) の気が通うことを得」
天地の理へと高められた徳をもって、国政がなされるとき、四時つまり春夏秋冬の季節が順当にめぐって、民は健やかにうるおい、すべての気<パワー>が天地に通じて、国は輝かしく栄える。

祭政一致。政とは、まつりごとで、私欲だけの官僚は、祭祀のパワーに顔を引きつらせ、天罰が下ると不徳を思い知る。
憲法は、官僚の利権あさりを厳しくとがめた。「古の聖王、官のために人を求め、人のために官を求めず」(七曰) 人のためにポストを求める、天下りが厳禁された。
「国司、国造(くにのみやっこ)、百姓より斂(おさめと)ることなかれ」(十二曰役人の、私的な収賄の厳禁である。

「かの人は瞋(いか) るといえども、かえって我が失(あやまち) を恐れよ」(十曰) 怒っている他人の方に過失があっても、自らは心をおだやかにして、何か落ち度はなかったか、省みて心をみがき和をめざす。

千四百年の昔、こうして憲法は官僚の生き方、国政のあり方、人々が心をみがく、和の国づくりを諄々と説いた。日本人の原点がここにある。これを小学校で説いて聞かせない教育には、何らかの意図があるのでは、と疑念を禁じえない。

⇩伊勢の内宮へ祈り奉られる。矢沢弦月「皇大神宮奉祀」伊藤龍崖「天照大神」。ともに神宮徴古館。

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★4 空間の連続、それは言論の自由。なのだが・・・

空間の連続とは、天照大神の岩戸隠れ、そのとき世をまた明るく照らした、高貴から卑俗まで、その全体性、そのまるごとの容認、全体の連続を、時代ごとにそして現代に実現する、である。
生の多様性を保障する、言論の自由である。【46.64頁】

岩戸隠れから、世がまた照らされたのは、卑俗な舞いへの哄笑、「あやし」と御顔をさし出されて八咫鏡をご覧になった、エロティシズムの魅力にあった。
高貴な神楽から、卑俗きわまる舞まで。その全体性連続が、世の闇を照らし、神も人も明るくして、笑顔が輝く平和と幸福を実現した。

しかし言論の自由は絶対でない、相対的な価値だ。
絶対視すれば、美は破壊される。いかなる汚ない言葉も一度は言われねばならない。言われて、その汚さと闘って、美は勝利するのだが、その最終的勝利にはいつも時間がかかり、過程においては、趣味の低下、美の平価切下を免れないのだ。【65頁】

言論の自由、と言う。自由という言葉に、何か価値があるようだ。
何をしても良い、許される、と誘うようだ。ちがう、まやかしだ。

自由はまた、だらしなく見える。非自由の制服。どこかの店に入って、店員が制服に身を固めて、統一された作法で客に応対するならどうか。逆に、ばらばらの服装で、思い思いに行動するならどうか?
⇩左は出典を確認中。右は、三島由紀夫vs東大全共闘【討論】、(KADOKAWA文芸WEBマガジン2020.3.18)。

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自由は、だらしなく見える。誰もがそうなのだ。自らの自由を願いながら、他には、不自由を要求する。誰もが、そうする。
だから、自由それ自体に価値はない。相対的価値だ。
だがその自由を、曖昧に前提にして、民主主義が成立している。
共産主義に、他愛もなく民主主義が侵略されたのは、この自由の曖昧な、甘ったれた相対的なイメージのせいだ。やりたい放題の自由の甘さに、民主主義は足をすくわれた。【65-66頁】

★5 しかし言論の自由は、共産主義と闘った・・

共産主義は、言論の自由を弾圧する。
共産主義は、モノとカネの平等を絶対とするから、言論の自由をそのために破壊して、言いたい事が言えなくても、モノとカネが平等ならばいいじゃないか!と主張して、で、どうなったか? 権力を握った者は、王の宮殿を奪い、宗教を破壊し、権威を借り着した。
クレムリン中南海、ともにWikipediaより。

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ルサンチマンをあおって市民の力をうまく利用して、独裁政権をにぎると不満も反論も封殺した。少数民族や政治犯への虐待は今もある。
こんな共産主義と闘う自由陣営の一員としての、あくまでも相対的価値が、言論の自由にある。

だから、言論の自由を保障する政体が最善だ。言論の自由をつぶす体制は、文化の第一の敵だ。
だが、あくまでも相対的な価値だから、言論の自由は時には文化を腐敗させもする。現下の日本に見るとおりである。【64頁】
文化を腐敗させた自由、やりたい放題の自由の甘さが支える民主主義。それらは相対的だ。では絶対価値とは何か?
自決のときバルコニーから散布された「檄」に、こう書かれた。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主主義でもない。日本だ。【評論全集Ⅱ巻531頁】
Acfree長良川画廊小宮山書店の各サイトより。

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★6 自決して、絶対とされた価値・・

日本を守るとは何だ。日本を守るとは、天皇を中心とする歴史と文化の伝統を守ることだ日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。自決の直前、そう叫ばれた。【演説は全集36巻683頁。檄】
自決の2年半まえ『文化防衛論』にこう書かれた。相対的価値の絶対化を、死によって成就するのが行動の本質である。【51頁】

三島は、自由民主主義相対的な価値だ、と言っていた。ならば三島が言う天皇を中心とする歴史と文化の伝統はどうか?他人から見れば、これも相対でないのか?

決死の行動。その本質は、この価値の絶対化にあった。
生命をかけて、価値の絶対を証した。

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憲法の改正は、挑むゴールへの一里塚だ。武士の魂、強さの美を腐敗させる憲法を改正し、そこから「菊と刀」の永遠の連環を再生する。これがゴールだ。

クーデターではない。自衛隊の中から「起つ者がいた場合に備える計画を全く立てなかった」【徳岡孝夫『五衰の人』文春文庫1999.286頁】
三島が挑んだのは「文字どおり死を賭しての「魂の叫び」を後世にのこすことだった」【村松剛『三島由紀夫の世界』新潮文庫 平成8.570頁】

「物質的なものは何ひとつ要求していない。日本人として持つべき魂の復活を訴えたかったのだ。外国のクーデターや革命ではない。そんな権力的な私心は持っていなかった。責任は死であがなおうとした」三島隊長の命令によって生き残った隊員による陳述である。【伊達宗克『裁判記録 三島由紀夫事件』講談社 昭和47.241頁】

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★7 BBCに Mishimaが語った、絶対への道・・

1》~《3》のまた復習だが、1985年に英BBCが制作した 「the strange case of Yukio Mishima」 という番組がある。YouTubeを検索したら hitするかも知れない。(この段落の画像は、1985-BBC-Arena-documentary)
三島はドイツ法学を専攻したが、レコードで猛勉強した英語による音声を数点のこしている。Mishima の英語は、わかりやすく文化の差異を超えて、死への道を語った、と思わせます。

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You can easily find, two contradictional characteristics of Japanese culture. One is elegance, one is brutality.  (4:25 / 55min.)
***「菊と刀」は半世紀前の日本で、常識だった。昭和23年に邦訳され、この驚嘆すべき日本論はベストセラーになった。しかし三島は、ひろく世界へ発信するため、「elegancebrutality」 「優雅と蛮勇」 と表現している***
日本文化をご覧になれば、二つの矛盾した特徴に、すぐ気づかれるでしょう。優雅と蛮勇、です。~ しめつけられて、蛮勇は暴発もします。大戦のあと、蛮勇は隠されたが、秘められています。日本文化は、華道の、平和への愛好だけで語れません。戦士の魂の強さも、私たちの心にある。よくご存知の通り、です。
I don't like, the Japanese culture is represented only by the flower  arrangement, so that, peace loving culture,  with too ,  we have strong warrior's mind, you know.  

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I think, economical prosperity give some bore felling already. It give big huge spiritual vacuum.   (20:16)
経済の繁栄なんて、もはや退屈で巨大な、精神の虚無だ。ただカネを集めるだけ。 日本人はこの虚無に、満たされず、しかし虚無と闘いもせずにいる。私はもう、経済の繁栄など信じない。何の意味があったのか?
サムライの伝統を、ご存知でしょう。サムライは、名誉に生き、カネを軽蔑した!のです。
We can't believe such a economical prosperity. What did mean?
We have a long tradition of Samurai, they lived honor and spirit, you know. They despise and look down any money!   
***武士道はカネを軽蔑したと、半世紀まえ、常識だったから、それを日本語で三島がことさら語った文章は、私が知る限り無いです***

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Spiritual, I want to revive some Samurai spirit through it.  (41:37)
精神性を!サムライのを、映画「憂国」切腹で復活させたい。切腹そのものでなく、この強烈なシーンによって若い人々の心を、眠っている魂を揺らして、生命を吹きこみたい。名誉に生き、大義、名誉に死ぬ。この長い伝統を復活させたい。私はそれに挑むのです。
I wanted to inspire, stimulate younger people. I want to revive some old traditional sense of honor, very strong responsibility, death in honor. That's my purpose.

武士は信じた。金銭なくしてのみ、なされる事がある。僧も、教師もだ。精神への献身は、値ぶみできない。精神はカネでなど評価できない。【新渡戸稲造『武士道』岩波文庫2001、90頁】

この大義について、三島はNHKテレビ「あの人に会いたい」でこう話した。
自分のために生きよう、というだけでは、卑しいものを感じるのは当然だと思うのであります。
自分のためだけに生き、自分のためだけに死ぬ程、人間は強くないんです。
何かの理想なり、何かのため、に生き、死ぬのも何かのため。それが大義です。最も華々しい、英雄的な、立派な死だと考えられた。

★8 文化概念としての天皇。絶対の価値。・・

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令和の日本に平和と幸福を築く、三島先生のメッセージを解明したく存じます。続きをご覧頂き、コメント頂いたご意見、ご指摘の点から、三島文学を深めてゆく所存です。