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旅立つひとを見送るひとへ

 春からこの時期にかけて、にじさんじ所属のライバー複数人が卒業を発表し、既に何人もこの場を去っている。今年は本当に、多かったように思う。
 去年も同じ時期の数か月間に悲しい知らせが多かったため、発表時期が重なるのは企業の事情が大きいのかもしれない。私たちはそれを知ることはできないが。

 ファンとしてはもちろん寂しいことだが、同時に仕方のないことなのだろうとも思う。ただ眺めているだけの私から見ても、流れのとても速い場所だ。人気のゲームの流行り廃りも、新人のデビューも、一度ウケたものが古くなるのも、あっという間に過ぎていく、激流のような界隈だと感じる。
 視聴者としては次々に新しい刺激が得られるが、渦中の者たちはそれにより疲れてしまったり、あるいは触発されて新たな目標を見つける者も少なくないのだろう。

 彼ら彼女らの人生にとって、この場所がゴールとも限らない。某ライバーがスタッフに、ここを次のステップにして構わないという意味合いの言葉をかけられたと聞いたことがある。まだ新しく不安定な業界故のスタッフからの気遣いの言葉だったのかもしれない。
 理性で感情を抑えられるなら私も、そんな気持ちで画面を見つめていたい。もしライバーたちが次に向かうべきところを見つけたのなら背中を押したいし、笑顔で見送ることのできる自分になりたい。
 けれど事実そうは行かないのだ。愚かだと分かっていても、目の前から大好きなひとたちが居なくなる時に嘆くことを人はやめられない。申し訳ないと頭を垂れながら、泣いて行くなと縋ってしまう。私はまだ、自分が推しと呼ぶライバーが事務所や業界から立ち去ったことはないが、それでも容易に自分の情けない姿が想像できてしまう。だからこそ、それが間違ってるだなんて思っていない。誰も悪くない、悪くないからこそ悲しむことしかできない。

 だけど同時に、悲しめるのは特権だとも思う。その人と同じ時間を過ごして、その場を去るまで好きでいられた者が、さいごを見送ることができる。
 いつか好きだったあの人は気づかぬうちに表舞台から去っていた、ということはそう珍しくもない。小さい頃好きだったアイドルを見なくなった後、いつのまにか女優になって歌うのをやめていただとか、あんなに聴いたあのバンドが解散していることを長年知らなかっただとか、覚えがある人もいるのではないだろうか。最後の時まで好きでいられることは、想像よりもずっと貴重なことだ。ならばその痛みさえ愛しさといえるのではないだろうか。堪え切れないほど苦しいかもしれない、だけどそれはあなたが真剣にその人を見つめ続けていた証だ。どうかそんな自分を誇ってほしい。

 詭弁だと思うだろうか。詭弁でも言わずにははいられないほど案じていると思ってはくれないだろうか。
 顔も名前も知らないオタクかもしれない、けれど私にとっては隣人なのだ。あなたがその痛みを乗り越え、また次の楽しみを見つけたり、平穏な日々に戻ることを、インターネットの片隅で祈らせて欲しい。

 旅立つその人と、それを見送る人たちのその先がどうか幸福で溢れていますように。

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