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ハートとわたし


『なぁに読んでるの?』

Sさんは座っている私の後ろから声をかけてきた。

私は、お昼休みに会社のデスクでnoteを読んでいた。最近noteの『小説』カテゴリーにはまっていて、あらゆるジャンルの内容を読み漁っている。

『あ、noteっていうSNSがあって、それに投稿されてる小説を読んでるんですよ。』

私は少し振り返ってSさんにそう言った。

『ふーん。』

Sさんは、再びnoteを読み始めた私をしばらく後ろから眺めていた。

居心地の悪さを感じながら、画面に集中しようとしてると、

『このハートの数って¨いいね¨みたいなもん?』

と、また後ろから声をかけてきた。

私はSさんの顔も見ずに、少し声のトーンを落として『そうですよ。』とだけ答えた。

『今読んでるやつ、全然ハートの数少ないね。』


背中越しに悪意の念みたいなものを感じた。

私は振り返ることなく『そうですねぇ。』とだけ答えてnoteを読み続けた。


いつもそうなのだ、この人は。

楽しい気持ちになっている人にシュッと水を刺しに行く。そして、その人のトーンが落ちているのを確認すると満足そうな表情を浮かべる。

私は苛ついている様子を極力見せないように、スマホを見ながら飄々と対応した。

『まぁ、noteやり始めた人とかはまだ認知されてないですから。ハートの数の多さはあまり気にしてないですよ。』

さも、そんなの気にする方が滑稽ですねと言わんばかりに伝えたのが功を奏したのか、Sさんは何も言わずスッとその場から去っていった。


だが、Sさんが離れた後、私は悶々としていた。

(果たして本当に私はハートの数を意識してないのだろうか。)

否、私がハートの数に引っ張られているのも事実なのだ。

星の数ほどあるnoteの記事を探していても、ついついハート数の多い記事に目が止まってしまう。

それだけそのnoteが価値あるもののように感じてしまう。何故だろうか。

ハートはまるで御朱印のようでもある。ここの神社に訪れた証明として印を残す。noteもまた同じで、「これだけの人が訪れて印を残しているのだから」という安心感もあるのだろうか。


『それって、描いてる画家さんを知らずに絵を見るか、知りながら見るか、みたいな話ですよね。』

隣のデスクのMちゃんに軽く相談したところ、上記の返事が返ってきた。

『ん、【これはピカソの絵ですよ!】って言われて絵を見るか、何も情報なく絵を見るかってこと?』

『そうです。描いている画家さんのイメージに引っ張られてしまうと、それだけで絵の価値を勝手につけてしまうんだと思います。仮に、子供のラクガキみたいな絵があって、本当に子供が描いたものなら大して気にもしなくても、画家の名前が『ピカソ』ってわかると、途端に【あ、ピカソが描いたのだから価値があるんだ。】って思っちゃうみたいな。』

『なるほど。』

『これだけスキ(Mちゃんはnoteの事を知っているのでハート=スキだと知っている)がついてるのだから、この記事は価値があるのだろう、っていう思い込みなんだと思います。確かにピカソは素晴らしいですけど、ピカソだから何でも素晴らしいって思い込むのはどうかと言うことです。』

『けれど、結局膨大な数の記事を検索したら、どうしてもスキの数が多い記事に目が惹かれてしまうんだよね。』

『それは仕方のないことだと思います。限られた時間の中で良い記事を読みたいと思ったら、どうしたってスキの数は目安になってしまいますし。』

『なるほど。。それにしても、人はネームバリューに引っ張られがちだよね。頭ではわかってるのにさ、どうしても中身よりパッケージで見てしまうっていうか。』

『そういうのは、人間の本能として仕方ないんじゃないですか?大勢の人が評価したら、それに引っ張られていく事なんてしょっちゅうじゃないですか。だからバズったりするんじゃないですかね?』

Mちゃんはそこまで言うと、コーヒーを飲んだ。

『そういう思考って永遠に消えないのかな。』

『本能だから消えることはないかもしれないですけど、○○さんはそれが何かおかしいって気づいたわけですから、変化はあるんじゃないですか?』

『フラットな自分でありたいです。』

『そういえば、ハートが少ないってSさんに言われた小説、面白かったんですよね?』

『うん、面白かった。』

『私にもその小説教えてください。』


ハートとわたし。お互いに引っ張られながらも、影響しあわずに上手く付き合えていければ良いな、なんて思いながら今日もnoteのページをめくっていく。
















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