見出し画像

洗濯機なき生活とスーツケース 性別はどこにあるのか。

心安らぐバーがある。世界史で習ったようなコーヒーショップってこんな感じだったのかな、と思うような。

そこでは多様な人がその人なりの生活をしている(ように見える)。

例えば、物書きをする人。締め切りを破っている最中らしい。
例えば、写真を撮る人。人間性を映すカメラのせいで、洗練された宣材写真は難しいそうだ。
例えば、服を作る人。お金を受け取ってくれないとの話題がある。
例えば、海外に買い付けに行っていた人。僕の長年の悩みを解決してくれた。

なんだか生き生きしていて、そこにいるだけで僕もそうなれるような気がする。
もちろんそんなことはないので、自分なりにやったりやらなかったりしよう。

その日、バーには写真を撮る人が多く、3人くらいいただろうか。
ありがたいことに、その中の1人に声をかけてもらった。
いずれ僕の住んでいる町で僕の写真を撮ってくれるそうだ。
自分が存在していることの根拠を誰かに求められる、そんな機会だ。純粋にうれしい。
お受けいたします、とやたらに恭しく答えてしまったのは、気恥ずかしさと、お酒のせいだ。

さて、その人は帰っていった。マスター(この人もお金を受け取ってくれないと話題だ)と話をする。
その中で、はて。となった。
あの人はどっちで想定していたんだろうねえ?

どっち、というのは性別の話である。

前の「洗濯機」で書いたように、僕の性別はかなり判断に迷うところがあるらしい、ことがわかっている。
それを意図しているところもありつつ、また、自然に出てしまう仕草や、観察者による判断は、いかんともしがたい。
人間の数だけ判断があるのは当たり前で、僕はそれにかまけている節がある。

初めてそのバーに立ち入った日、僕のことを「彼女」と指したのは5人、「彼」と指したのは1人だった。
もちろんありがたい配慮の結果かもしれない。
現在、僕は女性としてバイトをしている。
しかし、少し前は男性として居酒屋のホールに立ったこともあった。

さて、

難しい。

まあ、その話の結論は「どっちでもいいか」、というものだった。
その写真を撮る人のことはあまり知らないのだが、そのバーにいるという時点で、偏った人ではないだろう。

それに、僕自身、どっちでもいいと思っている。

昔はそんなことはなかったけれどね。それもすべて、君のおかげだよ。

ともかくも、性別というのは社会で生きる上でとても大事な符号であることは事実だ。
普段生きる上でも、さてどちらのトイレに入るか、さて人に話しかける時どっちで想定されるか、さて聞かれた時どうしようか、と悩むことが多い。

いずれ、それを気にしないで済む日が来ればいいと思う。
今の僕はどちらでもいい。でも昔の僕は、その度の判断に、心を締め付けられていたから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?