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共感について 寂しさも孤独も人生の前提ではないですか。

言葉の好みが激しいと自覚している。
本を扱う仕事柄、文章表現に貴賎はないと思っているが、個人的な好みを言えばかなりクチウルサイ方だ。

きりっとした言葉が好きである。
自覚された言葉、考え抜かれ覚悟の据わった言葉とでも云おうか、そういう言葉にはなにか、理性の清浄さのような味わいがある。
それは無色透明、無味無臭、誰の言葉でもない言葉である。
こういう言葉はまず間違いなく、孤独な内省の果てに生まれる。重ねられる内省、さらなる内省、どこまでも問い続けてゆくうちに、色は抜け思考は透き通る。余計なものを削ぎ落とした言葉は、さながら刃のようである。

逆に、好きになれないのがだらけた言葉である。
群れた言葉とでも言おうか、「共感」を掲げた甘ったれた言葉、内省のない感情的な言葉。
言葉遣いや表記のクセもあろうが、滲んでくる精神のだらしなさ、臆面もなく感情を曝け出すその野暮ったらしさと言ったら。
ときたまこういう言葉に出逢うと私は、なんだかなぁとほんのり苦く感じる。

まあ、文章の好みなんて好き好きでいいと思うけれど、しかし、昨今の世の中、共感を目的にした言葉の多いこと。
共感は目的にされるようなことではないでしょう。
そもそも共感を目的にする、という考え方自体がなんだかだらけていて私は好きになれない。群れたい、と言っているのと同じように聞こえる。共感は結果的にされる、されたものじゃないのか。
順番が逆である。

寂しい、孤独と言って共感を求める人は、本当の寂しさ、孤独を知らないのではないかと思う。寂しさも孤独も、人生の前提である。誰かで埋めることなど、できるわけがない。言ってしまえば、埋めあえる孤独なんぞたかが知れている。
本当の意味で寂しさや孤独を知っている人は、わかっているのである。自分だけではない、みんなみんな、人類ひとり残らず寂しくて孤独なのだと。
「寂しい」なんて、私に言わせればなんていうか野暮である。ずっとずっと私たちは寂しいではないか。有史以来ずっとそうではないか。けれども、それが人生というものではないか。
寂しさは慰めあうものではない。誰もが寂しいということを深いところで知っていれば、寂しいままで十分なはずなのである。ああそういうものだったと気づくのである。みんな寂しくみんな孤独である、それで良いのだと。
そういう意味で、世にあふれる寂しき人々、ともに寂しさを癒しあおうとする人々は、なんていうか、言葉に遊ばれているなあと思う。

SNSが一般化して、どんな人でも自由に、簡単に言葉を発信できるようになった。
自分の言葉がまさしく自分自身を示していることを理解していて、それゆえに言葉に対する恥の意識を、きちんと清潔に持てている人はどれくらいいるのだろうかと思う。
発信しやすくなった分、ある意味試されていると言っても良い。

私自身はこれ以外にSNSをやっていない。
こんな世の中で今まで誰かの個人的な文章に興味もなかったが、最近は、こんな世の中でも、痺れるような文章、そのような文章を書く精神の持ち主に出逢ってみたいと思うようになった。
そんな人、本の中にしかおらんと思っていたけれど、どこかにいるかもしれないと思えるようになったみたいだ。

良い変化である。

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