誰が何をしてるんだかわからなくなるときがある。 朝、キッチンで歯を磨きながら、あれ、ここってどこなんだっけ。これ、なにしてるんだっけ。 夕方の電車で窓に映った自分を見て、あれ、これ誰だっけ。私ってこれのことだっけ。 夜の公園で友達とおしゃべりしながらふと、この人誰だっけ。この人と喋ってるこれ、なんだっけ。 私にとって自分というものはちっとも確かではない。という文章の主語である「私」も、実はよくわからない。いやそれは私でしかないんだけれど、その私ってどれ?なに?と、色々考えて
ロスマクのさむけに引き続き、本格ミステリを。 もともとコリン・デクスターのウッドストック行最終バスを読むつもりだったが、レビューが絶妙に賛否両論だったので読むかどうか迷ってしまい、書架でたまたま目に入ったこちらを選んだ。 ガストン・ルルーといえば、オペラ座の怪人で知られるフランスのミステリ作家である。1868年にパリで生まれ、1927年に58歳で亡くなっているから、ずっとずっと昔の人だ。日本で言えば、森鴎外くらいの時代である。モーリス・ルブラン(怪盗アルセーヌ・ルパンの生み
昨日の夜の出来事である。 もくもくの煙を浴びながらカウンター席で並んでホルモンを食べ、コンビニで買ったカフェラテを飲みながら秋の夜風に流されるように歩き、気づいたらその人の部屋にいた。 パチパチと鳴るキャンドル、サンダルウッドの濃密な香りとアルコールとカフェインで脳も神経も眼の奥も何もかもがぎらぎらして、その人が淹れてくれたルイボスティーは甘い白湯のようだった。 付き合っていない、男女。 たまに遊ぶ仲間内の、ひとり。 セミダブルのベッドにくたっと横たわると、その人は腕枕、と
久しぶりにハードボイルドミステリを。 ふんわりした感情系の小説を続けて読んでいると、ハードでクラシカルな小説が猛烈に読みたくなってくる。 しかも、季節は秋だ。 個人的に、春夏は感情・表現系、秋冬は推理・哲学系の読書傾向がある。 季節に合わせて感受性と思考の領分が変わるらしい。 確かに、穏やかな春の日にチャンドラーやディクスンカーって、いまいちな感じだ。吉本ばななや、タゴールの詩集なんかがいい。ぶわっと、あるいはきゅうっと、感じる系。 あまり考えたことはなかったが、私の中で季節
辻村深月さんの傲慢と善良を読んだ。 売れっ子人気作家の恋愛長編で、ファンも多いだろうが、残念ながら私は少しも好きじゃなかったというのが正直な感想である。 あまり肯定的なことは書けなそうなので、辻村深月さんのファンやこの本が好きな人は、この記事は読まない方がいいと思う。 私はもともと好き嫌いがはっきりしていて、良いと思った本は底抜けに大絶賛するが、駄目だと思った本は一切良いと思えない。お世辞も言わない。 そういう感受性の領域で嘘をつけない。 ある意味それだけ、言葉と物語へのこ
ディーリア・オーエンズの「ザリガニの鳴くところ」を読んだ。 基本的に本は読んだら終わりのタイプで振り返ることなどめったにないのだが、感想を書いてみようと思う。 本作は2021年の本屋大賞翻訳小説部門賞を受賞した、アメリカのミステリー小説である。 同部門の受賞作品は、2020年の「アーモンド」(ソン・ウォンピョン)と、2019年の「カササギ殺人事件」(アンソニー・ホロヴィッツ)を読んだことがある。前者は割と好きだったが後者はいまいちピンと来なかった。 本屋大賞には詳しくないが
図書館司書に転職して、今年で3年目になる。 転職前は、新卒で入った会社で4年間エンジニアをしていた。 そもそも私は、就活がうまくいかなかったタイプの人間である。 大学3年の冬、まずやりたいことがなかった。そして自分に自信もなかった。 自己分析なんてしようものなら、哲学的な方向にいってしまって、就活用の材料づくりなんてこれっぽっちもできなかったのである。 強み、弱み、長所、短所、自分がどういう人間であるか…鮮やかに語ることのできる友達がうらやましく、しかしどこかで彼らを「なん
(2022/9/11 日記)祖母が癌であると聞いて。 23:55。 なんだか悲しい気分だ。 どうしてかはわからない、でも、確かに悲しい気分だ。 ちりが積もるように、雪が降るように、降り積もるように、悲しみが注ぎ積もりゆく。さよならの予感なのかもしれない。 永遠はあると信じるということは、永遠などないとどこかで思ってしまっているという事だ。 分らないから、信じるのだ。 死。 死ではなくとも、もう戻らない日々。 「もう戻らない」といつも思っていたはずなのに、わかっていて、心から
(2022/10/11 日記) 写真はいつかの有馬記念後の中山競馬場 kyosera samuraiのハーフフィルム 美しい夕焼けを見て、一日の終わりの予感を感じるとき、その夕焼けを、いつか見たように感じることがある。 いつかどこかでこの景色を見た。 正確には、「この感じ(夕焼けを見たときの何かが往く、去ってゆく、何かが終わるという予感)」を、私は知っている、と感じる。ずっと昔から。 見たこともない景色や世界を思い浮かべるときも、同じようなことを思う。 理由もなく私たち
言葉の好みが激しいと自覚している。 本を扱う仕事柄、文章表現に貴賎はないと思っているが、個人的な好みを言えばかなりクチウルサイ方だ。 きりっとした言葉が好きである。 自覚された言葉、考え抜かれ覚悟の据わった言葉とでも云おうか、そういう言葉にはなにか、理性の清浄さのような味わいがある。 それは無色透明、無味無臭、誰の言葉でもない言葉である。 こういう言葉はまず間違いなく、孤独な内省の果てに生まれる。重ねられる内省、さらなる内省、どこまでも問い続けてゆくうちに、色は抜け思考は透
一人暮らしを始めて5年、ニュースを見なくなっていた。 交通事故、殺人、暴力、病死、自殺、殺し合い、この世は毎日そんなことばかりだ。 遠い国の誰かがいじめられて死んだこと、一度も会ったことのない誰かの病気のこと、飲酒運転で跳ね飛ばされ即死だった人のこと、誰かを助けて身代わりに刺されて死んだ人のこと、テレビはいつでも教えてくれる。 一人で暮らすようになってから、実家では、家族に助けられていたんだと気づくようになった。 同じ部屋にもう一人いれば、私が受け取る量は半分で良い。これは
(2024/8/29 メモ帳) また きた 水面が陰で覆われる 沈んでゆく―――底なしの重い空気 陰であり鬱であると分るのは陽向を知っているからだ 心の重みがわかってしまう 確かに重い ということが 目に見えないものの重さがわかるとはいかなることなのか しかしこれはあきらかに気分である 突然嵐のようにやってきてはいつのまにか去っているあれ 観察してみよ 麻酔のかかったまぶた かたく閉じた声帯 腕 指 脚 弛緩 だるさ 暗がり 閉じてゆく全身 全身が綿のようだ 貝のよ
常々思っている。 私自身は読書に抵抗のない人間だけれども、読書推進という言葉が好きになれない。というか嫌いである。 読書が大事でないと言っているわけではない。 読書は大切だ。だが、「推進」するほどのことかといつも思う。 活字離れが騒がれて久しいが、いつの時代も読む人は読むし読まない人は読まない。読まれる本は読まれるのだし、読まれない本は読まれない。読みたい人は読む。それでいいんじゃなかろうか。というか、いいとか悪いとかじゃなく、そうでしかありえないのじゃなかろうか。 それで
(2024/8/xx メモ帳) 雷 不安定な天気 不安定な心 頭痛 歯のかみ合わなさ 奥歯の違和感 silvia plusの詩――― 殴打。 切り傷 血を見たさ 鮮やかさ 狂暴 ぼっとする 頭。 寂しいだけ 気分 死 無に一直線 まっさかさま?急降下 気圧が下がると気分が悪くなり死にたくなるなんてあたりまえなのだった この感じを孤独って呼んでいいのだろうか 一人と独り 雨 降り出す 自分がここにいるという感覚 容易くすり抜けてゆく いま、ここ、私 now,here,m
はじめまして。 takanoといいます。 日々、さまざまなことを感じ、考える。 驚きや疑問がそうさせる。ゆえに、考えたくなくとも考えている時がある。 考えると、書く。 適当なノートを引っ張り出し、そのへんの筆記具で殴り書く。思考や感情が先走り判読不可能な日も少なくない。気づいたら10年分ノートがたまっていた。 私にとって考えるとは、世の中の出来事に関して誰かと意見交換することではなく、ただ一人自分の内奥深くに突き進んでゆくこと、それでしかなかった。 掴んだ、という感覚がすべ