とどめを刺ささずにもてあそべ 『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』 #248
『東大で上野千鶴子にケンカを学ぶ』。なんとも刺激的なタイトルです。ですが、上野先生が手取り足取り解説してくれるわけがない。「学ぶ」とは体当たりの修行なのだなと感じた本でした。
著者の遥洋子さんについて、関西以外の方はあまり知らないかもしれませんね。主に大阪で活動されているタレントです。
90年代には、上岡龍太郎や桂ざこばをはじめとするお笑い芸人や落語家と多くの番組に出演されていました。
この頃、女性タレントに求められることといえば、丁々発止なやり取りの中で交わされるセクハラ発言や女を貶める発言をどうかわすかだったと思います。大阪というお笑いのメッカで制作される番組なので、何を言われても笑いに昇華させなくてはなりません。でも、女としては許せない気持ちがつのっていく。
そこで上野千鶴子先生の門を叩くことにするのです。
が。
そこは最高難度の受験戦争を勝ち抜いて赤い門をくぐった人たちの世界です。講義で紹介されるフェミニストらしき人物の名前も知らず、歴史的に一大事な事件についてもちんぷんかんぷん。はるか年下のクラスメイトに質問するわけにもいかず……。
遥さんは分かりやすく落ち込みます。そりゃそうだ。
「わたし、もうムリです。ついていけない。何しにきたんやろう?」
思わず吐いた弱音ですが、上野先生がやさしく抱きしめて慰めてくれるわけがない。
「喝ーーーっ!!」
実は、わたしが上野先生のことを“ちづこ”と呼んで親しむようになったのは(あくまで脳内でですよ)、この本の、この一撃がきっかけでした。
「何ができないの? これ? こうすればいいだけでしょ。どこがムリなの? こうすればいいだけでしょ。できないことなんて何もない!!」
なんて見事な仕切りなんだろう。
課題がうわーっと目の前に迫ってきた時、何が何だか分からないうちに「大変だ大変だ!! わたしにはもうムリ」と思いがちです。でも、問題を切り分けてみると、ぜんぜんたいした話じゃなかった、ということはよくあることです。
わたしはいちおう哲学科出身なので、デカルト先生の困難を分割して疑う思想を学んではおりました。でも、ぜんぜん分かってなかったことが分かりました。
上野先生のキッパリとした(たぶん)励ましを受け、「ああ、学ぶってそういうことなのか」と悟る遥さん。ゼミ仲間と親しくなる方法も見つけます。
「お化粧を教えるから、授業で出てきた人物のことを教えて」
彼女たちのほとんどがメイクの方法を知らなかったのだとか。そして彼女たちも「タレントさんが来た!」と遠慮していたんですね。お互いのほしいものをみつけて、バーターをもちかけるたくましさ。見習いたい。
セクハラ発言や女を貶める発言をどうかわすのがいいのか、永遠の課題にも思えますが、『私たちにはことばが必要だ』の著者イ・ミンギョンさんは、「分かり合えない相手とは話さないことを選ぶ権利がある!」としています。プライベートならそれで乗り切れるかもしれない。ですが、遥さんが必要としていたのはテレビという場での言葉でした。
本のタイトルにもなっている「ケンカ」とは、話を聞かない相手と議論をすることを指しています。想像力のない人をどう攻略するか。「知の戦場」で学んだことを、「現実の戦場」に持ち込むにはどうするか。
遥さんが胸に刻んだ上野先生の金言は、わたしも大切にしています。
「とどめを刺さずに、もてあそびなさい」
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