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暮らしたい未来のまち

目を閉じれば「暮らしたい未来のまち」が、すぐそこに広がっている。

木々の間を抜けた爽やかな風が薫ってくる。目を動かせば見通しの良い通りを、ゆったりと通り抜ける車や自転車、穏やかな表情の人々。つやりと光を放つジグザグのペーブメント。とりどりの色の花びらを弾けさせる花屋の軒先。

目を開けるとどうだろう。こんな街に住んでいる人、街を楽しめている人が一体どれぐらいいるのだろうか?看板だらけの道に目を置いておける景色もなく、視線を落とすと表示の擦れたアスファルト。ファーストフードショップの自動ドアの前を疲れた表情で通り過ぎる人達。もちろん私もその中の一人だ。

「暮らしたい未来のまち」はすぐそばにあるのに、触れるには遠すぎる。まるでGLAYの「BE WITH YOU」の歌いだしみたいだ。未来は近く、はてなく遠いのだ。

一体この都市の形はいつから出来上がったのか?なぜこのような形をしているのか。そもそも人工物ばかり集めすぎではないかと思う。

私はいつもいつも、そんな事ばかり考えている。だが、そのような人間はかえって少ないのかも知れない。30代も半ばになり、やっとその事に気が付いた。

街の形に何の気も留めない家族などと話せば、「そんな事考えたこともない」と言われ、そして専門家と話せばレッチワースが良いとか、法規制がどうとか…。そんな所で中間的な意見の人が居ないのである。でも街は誰よりも身近なのだ。

3年前に、私は大好きだった写真家の柴田敏雄さんの話を聞きに行った。土木構築物を迫力あるモノクロームでプリントした写真は圧倒的で大好きだ。その時に、なぜ名もなき土木構築物を写そうと思ったのか?という質問に柴田氏は「日本には撮るべき景観がないと感じた」と仰っていた。それには驚愕した。当時柴田氏は海外の景観の中で沢山過ごしてこられた後だった。

「撮るべき、見るべき景観がない現代の日本?」これはひたひたと私の心を悲しくした。豊かな街並みは、画像検索するだけでも、歴史ある海外の街や日本の街にもたくさん、見つけられた。一体どうすればこうなれるのか・・?

「未来のまち」と聞くと何だか近未来の都市が思い浮かぶけれど、今の都市と地続きで、そして私たちの体が感じる感覚や生き物の感覚と地続きなまちが良いと思う。人間が窮屈に感じる都市に未来はなく、一時の夢と消えてしまうだろう。時を超えて時代を超えても豊かとなる都市。それはきっと、「背伸びしない自然な都市」だと思った。それが、私たちの毎日を豊かにする。

背伸びせず私たちの体感とつながった街。

私たちの体感とつながった街。持続性を考えればそれはまず、自然のシステムから逆算してつくるまち。自然が生み出せる資源そして使用できるエネルギーは限られているのだから、一年のうちにつくる土木インフラそして建築物でさえも、自然が包摂可能な量の、質の良い資産を生み出し、持ち続けるべきだ。当然、デザイン性の高いものでないと残り続けることは出来ない。

そして道路の幅や建物の密度の設定も、人の健康や動植物の健康を考慮して見直すことで、歩きやすさや風の温度がもっと、しっくり来るものになる。

ところが今の都市の出来方はどうだろうか。そもそもの法整備が、建てよ増やせよといった時代に出来たものである。根底にあるのは経済性の追求だ。エコシステムの考え方なんて微塵も入っていないように感じられる。あくまで私感だけれども・・・。

これからは経済性の追求から、質の向上に大きく方向が転換されるのだと思う。丁度我々のトレンドがマイカーの購入からネコに、関心事が移っていったように。

方向転換はある意味でチャンスかも知れない。「経済性」という「1か100か」の判断がされる世界でも、教科書の中に書かれた都市計画でもなく、私たちの感覚や私たちが本当に思うことで、まちのルールをつくっていくことができるから。もう一度私たちの手にまちを取り戻したい。

そのプロセスが楽しいものでありますように。

自然本位とか、エコなものはお金が掛かるし一体どうやってという意見があるだろうけれど、都市が持続しなければそもそもお金は生まれません。そして自然からの逆算、私たちならこういった計算は出来るはず。自然界のどんな生き物にも出来ないことだからこそ。後は決断あるのみ。一つずつパズルを解いて、自然を元に戻して行こう・・。その先には芳醇な都市がずっと生き続けるのだ。

そして、ディスってはしまったけれども今暮らしている安全安心な街には本当に感謝しているので、この街が更に深化を遂げてほしいその一心なのです。

どのような形であっても、自分の心の中にある「まち」の実現に何か貢献できないかと思いながら仕事へ向かう。

今夜もそんなとても綺麗なまちの歩道を、靴を鳴らして歩きます。

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