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遺品整理から考えた「学歴」と「時代の遺物」

親が子どものために遺すもの。
それはどんなものだと思いますか?

それがどんなものであれ
親が現役で活躍している時は
光り輝いていて
「これを子どもに遺せば
 子どもが豊かになるに違いない」
と思うものかもしれません。

でも時代が変わると
当時の輝きは色褪せ
ただの”不用品”に成り下がる事も
あるのだなあと
今、亡き母の遺品整理の一部である
大量の茶道具を整理を
していて思います。

茶道は昭和の時代には盛んで
当時は茶道具も
高値で取引されていたそうです。

きっと親は「資産価値」も考えて
大量の茶道具を引き継いで欲しいと
遺してくれたのだと思います。

でも今はほとんど値がつかず
田舎の一軒家と違い
街の狭いマンションには
かさばるものある
茶道具を置く場所もなく
ゴミとして廃棄するには申し訳なく
違う対応をする必要があります。

今、古美術商に買い取りを
お願いするために
100を超える茶道具の
資料を作っていて
ふと思ったんです。

「これって、偏差値が少しでも
高い学校に進学させようとしている
保護者と似てるのかも?」と。

今年の5月、亡き母の葬儀で
久々にあった息子と
話をしている時
親子関係の亀裂の原因になった
中学受験や大学受験の話になりました。

今は東京で起業しシステムエンジニアの
マネージメントの仕事をしている彼から
「正直、大学なんてどうでも良かったわ」
(そうでしょう。息子は経済学部卒。
 就活がうまく行かず卒業直前の1か月で
 超詰め込みでプログラミンを学び 
 ギリで就職して東京に行ったのだから)

「もっと、10代の時、受験勉強より
やっておきたかった事ってたくさんある」
「偏差値あげる努力なんて無意味だった」
「あの頃、自分の好きな事にもっと
 時間を割けていたら
 こんなに回り道をしなくてもよかった」
と言われショックを受けました。

親として子どもに遺せるものは
【学歴】だと信じて疑わなかったあの頃。

必死で仕事して教育費のために
身を粉にしてパートして
小学生時代から塾の送り迎えして
弁当作って受験を共に戦ってという
自分なりに精一杯やっていた
「子どものために自分を犠牲にした時間」
を全て否定された気がしたからです。

当時幼かった息子は
「あなたのためよ」という母に
対抗できる唯一の手段として
反抗口ごたえを繰り返しながら
「僕は受験なんてどうでもいいねん!」
って必死で伝えようとしていたのでしょう。

でも本人も心のどこかで
「親や先生の言う通り学歴も大事かも」
という気持ちとの葛藤で
親から押し付けられる全てを否定し
自分の思う通りに生きる選択は出来ず
苦しみ抜いたのだろうと思います。

息子の学生時代から
ずいぶん経つのに
未だ【偏差値信仰】が健在で
「子どもをいい学校に進ませたい」
という親御さんの思いが
根強く残っているのだとしたら
それが「時代の遺物」として
将来、子ども達にとって
何かの形で負担になる事がないように
と願わずにはいられません。
〈終わり〉