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「解答不能」と100の格闘

答えることのできない問題

算数が苦手な子どもだった。中学受験のために塾に通っていたが、学校のテストでは毎度100点が取れても、塾で出される問題はほとんど解けたことがない。それくらい、小学校の授業と中学入試塾のレベルは乖離していた。

それでも授業は聞いていた。というか、聞くふりだけをしていた。実際に聞いても正直全然分からないが、勉強していないと思われるのはまずい。だから塾の算数の授業は、いつも機械のように言われたとおりにノートを書くか、講師の言葉に曖昧に頷いているだけだった。

その問題も、確か図形だったと思う。自分には全く手も足も出なかった。「分からない」ことによる屈辱感などとうに鈍磨していた私は、適当に図のあちこちの辺の長さや角度を求めるだけ求めて早々に諦め、あとは先生の解答を聞くだけ聞いてみるつもりだった。

解説が始まる。やっぱり、途中の式や補助線の引き方は、説明されても自分にはさっぱり分からない。ただいくつか蛇行した末に書いた、先生の「解答不能」という綺麗な字だけは鮮明に読み取れた。

なんだって? 解答不能? 作問ミスってこと?

でも違う。あの切れ者のY先生が、あっさり「この問題は解答できない。それが答え」と宣言して、今は次の問題の解説を始めてる。

すぐ後に知ることになるが、実数を0で割る問題ももれなく「解なし」になるらしい。割るゼロ。いかにも単純だ。こんなにシンプルなのに、なぜ今まで一度も見たこともなかったのだろう。もしかして、これまで周りの人の意志によってうまくこの問題が避けられ続けてきたのか、などとなんとなく悔しく思ったりした。

でもこれも後々分かったことだが、ことはそう簡単ではないらしい。

いざ解答が不可能な問題に遭遇しても、それが本当に解答不可能な問題かどうかを正確に見極めるのは難しい。ちゃんと見分けられるまで、その問題は他の問題と見かけは同じである。だからそこには「とりあえず普通に解いてみる」という普遍的な作業が必要になる。自分の道具箱にあるあらゆる公式や考え方、テクニックなどを総動員して、「どんな方法を使ってもこの問題は解けません」と言い切れたとき、初めて「解なし」が解答足り得る(もっとも、この手の問題は背理法による結論を出す問題も多いが)。それは「解き方が分からない」とは違う。「この問題に解き方など存在しない」といえなければならない。そのためには、相当に算数の実力が必要である。

でもちゃんとした理解など持たないまま、当時の私は「解答不能」という魔法のような言葉に魅了されてしまった。なんとなくそれは、めちゃくちゃにかっこいいことのように思えた。

その後、相変わらず全然理解できない算数の問題たちと向き合いながら、私は密かに「解答不能」との邂逅を待ち続けることになる。解答不能。数字の答えが求められる算数の試験で、この4文字の言葉を書くことができたら。そしてそれにマルがもらえたら。どれほど気持ちいいだろう……

しかし小学校を卒業し中学に進級しても、私がそんな鮮やかな解答をしてみせる日は、ついぞやってこなかった。

そういう問題が一切なかったわけではない。高校数学にもなると、時折難しめの整数問題や関数の問題で「~を満たす実数はない」とか「~の範囲に解は存在しない」という問題がちょこちょこ現れた。だが、それだけでは物足りないのだ。私の理想とする「解答不能」はもっと大胆に、もっとダイナミックに「解答」という行為の要求をはねのけ、しかもそれが正解でなくてはならないのだ。だがそのレベルの出題をする学校は、大学受験まで私の進路には現れなかった。

答えのない問い

最近になって思う。多分だけど、私が憧れていたのは、刀折れ矢尽きるまで戦って満身創痍で導き出した「解答がない」という宣言などではない。問題に堂々と「知らんわ」と突きつける傲慢さを、いつか出題する側に受けれてもらいたかっただけなのだ。

ただただ難しいグラフや比やなんたら算で私を苦しめてきた問題に、「問いの方に間違いがある」という逆襲の一手が打ってやりたかったのである。偉そうに問いをふっかけておいて、前提に間違いがあるじゃないか、と言えたら、なんとなくそれは普通の問題にきれいに答えるよりずっとかっこよくはないだろうか。少なくとも当時の私の頭の片隅には、こういう甘い幻想に魅せられていたところがあったのだと思う。

ここまで考えると、大学の「学問」というやつも、思えば私はちょっとした誤解をしていたように思う。学部で学ぶもの、特に教養系の科目では「答えがない問い」に触れる機会が多い。特に人の良い教授だと、雑談がてらにポロッとその辺の事情を話してくれたりする。

「この辺までは考えてあるんですけどねえ。仮にここで別の、こんな角度から問いが立てられたらどうするのか……学説はみたことありませんし、実は私もよくわからないんです」

こういうのに私はついついいい気になって、「なるほど、すごく頭の良い人でもわからないことはあるのだ」などと間違った安心感を抱いていた。そんなわけで、学部時代はほとんど苦手な分野の勉強はせず、自分の読みたい文学や政治学の本ばかりを読んで、苦しみを伴う嫌いな勉強は避けていた。

問いを立てて、答える。あるいは、回答を試みる。でも答えられない。それが学者たちの興味の向かうところだからこそ、そういうものが教科書や授業の主題となる。先生たちはみな親切に「高校までの勉強と違って、答えなんてありませんよ」と教えてくれるので、なんとなく考察めいた怪文みたいなものを授業ノートの隅に残して満足してしまう。それをあえて読み返して反省するような、そんな殊勝な心がけを私は持ち合わせていなかった。

だがどんな分野でもちゃんとものにしようと思ったら、ほとんどは先人が残してきた物をなぞることに、その時間の大半を費やすのではないか。高校の勉強がまさにそうだった。数学の公式しかり、古典の文法や古語しかり、歴史なら年号や官職の布陣を、生物なら法則と理論を、というように、大半は誰かが発見したり事実が蓄積されたりして固まった知識を、とりあえずまず使えるように、訓練を積んでなんとか咀嚼して、いつでも使える形に加工して自分の道具箱に収めておく。

法律の勉強はまさにこれで、なすべきことは徹頭徹尾「条文解釈」である。法律という、権力的に決定された動かしようのない文章に対して、過去の学者や裁判官が残したいくつかの「読み方」のパターンを知り、そのうち最もふさわしいものがどれか、適切な「読み方」あるいはその「選び方」をとにかくひたすら頭に詰め込んでいく。

「解釈」などというといかにも自由で扱いが楽なようにも思えるが、基本的に一つの条文について妥当といえる解釈はせいぜい多くて数パターンしかない。それ以外の解釈は、他の条文との整合性の関係で矛盾を起こしたり、その法律がそもそも保護しようとしたものが守られなくなるという、本末転倒の事態を引き起こしたりしてしまう。もし他の条文とどんな摩擦も起こさず、また法の趣旨と整合する新解釈を発見できたなら、論文が一本書けるだろう。だけどそんなことは、まず絶対に起こり得ない。それは将棋のルールを覚えたばかりの人間が、いきなりプロの棋士と戦って勝つくらい難しい。

だから、法律の勉強というものは、一部の天才を除けば、徹底したパターン暗記の連続である。民法177条の「第三者」の意義とはなにか。刑法108条以下の放火罪において「焼損」とはどのような状態を指すか。行政庁の行った行為の「処分性」はどのように判断すべきか。

おそらく、あらゆる学問には多かれ少なかれこういう側面がある。つまり、学者を悩ませる難題に取り掛かる前に、まずはその問いが立てるに至るための前提知識を大量に持っておく必要があるのだ。

専門家や学者が研鑽を積んで述べた「答えられない」は、逆説的だが、ほんのちょっとだけ知識を得た者には理解しやすく、カジュアルな知的好奇心を満たしてしまう。だけどその「答えられなさ」に教授たちがたどり着くには、膨大な量の資料との格闘があったと思われる。

学部の授業は、その辺が割と省略されている。先人を含む自分たちの行ってきた格闘のあらすじを教授たちが説明してくれたり、100ある資料のうち未解決の論点に至る上で重要な2か3の、あるいはせいぜい10くらいの定番資料だけを教えてくれたりする程度だ。

なんてことはない。「答えのない学問」は算数の「解なし」と同じく、その問いを問いとして正しく認識するには、量としての知識が絶対的に必要なのだ。ただ私は、「答えがない」というシンプルさと、専門家たちの目の覚めるような素直さに甘えていたのかもしれない。

ただ、本当に難しいのはその先なのかもしれない。

答えられなさと、心構えについて

こうしてやっとの思いで確立した知見、あるいは少なくとも現段階では解がないという確信が、別の分野や一般の常識と摩擦を起こすことがあるのだ。もしかしたら、その努力の結晶も、別の分野ではあってはならないことだったのかもしれないし、とうの昔に全く別の「解答」によって解決済みとされたものだったのかもしれない。そんなとき、「知見」は砂上の楼閣のような、ごくごく頼りないものになってしまう。

こういう摩擦が起きたとき、私が尊敬をしていたのは上記のような、自ら積極的に迷いを見せてくれる学者たちだった。難しい問題の難解な部分を噛み砕いて、その問題のエッセンスが持つ普遍性を一般人に伝えられ、なおかつ素直に悩んでみせ、恥じらうことなく妥協点を探るヒントを知らないかと教えを乞う。私はそういう知者の善意のみに触れて、これこそが究極的な問いであり、学問の本質に違いないと思っていた。

だが、恥ずかしながらこれは多分いくらかの間違いを含んでいる。ただ単に矛盾点や論点が存在していることを素直に認めるだけでは足りず、その対立の核心はどこにあるのかについて、学者は一定の解答をしなければならないのではないか、と最近は思うのだ。そして実は、この点では常に「問い」に対して真摯な苦悩をみせる姿勢よりも、実際に自分の知見の範囲内で端的に、あるいはやや強引にでも解答する学者の方が、ある意味では優れているのではないか、と思うことが最近増えた。「でも自分の分野ではこうなんです」と。

この辺については、確信があるわけではない。というかこの問題点、つまり「分野の違いがもたらす正解の違いは解決できるのか?」という問いに対して、私は答えられるだけの知識をまだ持ち合わせていない。したがって、何らかの根拠ある「解答不能」などではない。完全に空欄の、そのまま採点されれば確実にバツがつく白紙の答案である。

とはいえ、自戒しておくべきこともなんとなく分かってきた。

知という巨大な怪物を率いる御者たる学者に、私は常に素直で謙虚であってほしいと願っている。だけど、猛獣使いが猛獣使い足り得るのは、その者が100の格闘をこなせるからである。彼らがときに尊大で一見不誠実そうな態度で我々に接するのは、あるいは自分の知性がもたらす驕りからなのかもしれないが、かき分けて来た資料の山の険しさに由来するところも大きいのだろう。

一見すると、敵は知識という宝庫の前でふんぞり返る門番たちの強すぎる自尊心に思えるかもしれない。実際にそれは大いにあるだろう。気さくで、人間的で、自らの迷いをあけすけに見せてくれる、よく知っている友人のような知者がほしいと思うのも、私が人間である以上ある程度は仕方がない。でも私は、そこに「解答不能」への無責任なあこがれがないか、悩める学者というイメージへの勝手な親近感が、物を見る目を曇らせていはないか、いくらか反省してみる必要があるのだと思う。

一方でもちろん、もし自分がなれるならどちらがより良いだろうか、ということも常に考えなくてはならないだろう。この辺に思いが至ると、やはりふりだしに戻ってしまう。結局、知識という物に対する向き合い方で自分の生を限りなく良いものにしたいなら、やはり謙虚さというものを持ち続けることこそが大事なのではないかという気がしてくる。

そこが難しい。

少なくとも、謙虚な人間なら、自分の退屈しのぎで「解答不能」の問いを闇雲に求めたりはしないだろう。単なる面白さを求めるあまり、根気よく知識を蓄積させていく労を惜しんだりしないだろう。

他方ででも、より謙虚であろうとするなら、そのような学問におけるポップで禅問答のような「謎」の持つエンタメ的性質にそう簡単にたどり着けなくとも、意地の悪い学者を憎んだり、冷たくあしらう知識人を無用に蔑んだりもしないだろうとも思う。一旦その相手の態度の辛辣さを脇にどけて、その人が向き合ってきた100の格闘と、自分が積み上げた知識の山のささやかさにまず目を向けるべきではなかろうか。

というようなことを、ワードの校正機能で赤字だらけになって返ってきた答案を見ながら、最近は考えている。

接見


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