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アートが嫌いだった僕が”アート関連”のイベントを企画するまでの話5/3 続・完結編2

皆さん、こんにちは。

新型肺炎のニュースが、とても心配です。

私たちの対談イベントにも大きく影響を及ぼしてきております。本日、イベントサイトでも『【お知らせ】新型コロナウイルス感染症への対応に関して』を公開しました。ご来場の際には必ずお読み頂き、ご来場いただきますようお願い申し上げます。

マスクの不足だけではなく、対談イベント本番時にご利用いただく手指消毒剤の不足。これらが入手困難なため対策を講じることが難しく、影響を及ぼしておりましたが、独自のルートで入手に成功。会場内に16箇所も設置しました。

いよいよ、泣いても笑ってもイベントまであと二週間となりました。
上記サイトで引き続き参加申し込みを受け付けております。

前回までの投稿で、いよいよアート嫌いだった私がアートが好きになったことや、落合陽一の作品を見て感じたことなどを書いた。

いよいよ、このシリーズも完結に向かっている感じがしている。あと少しだ。しかし、あと何を書かねばならなかったのかが、解らなくもなってきている自分も居る。ここでサラッと終わってしまうのも手かなと言う誘惑と日々闘っていることをここに報告すると共に、今日もこうして投稿しているということは、この闘いに私は勝利したのだということも併せて強調しておきたい。

落合陽一と新宮晋=ペガサスとペガサス

新宮晋の作品は、風で動く彫刻、絵画、絵本、小説と表現は多岐に及ぶ。油絵から風で動く彫刻へと表現を変化させた。しかし、新宮が面白いのはこれらの表現を、行き来しているということだ。そして、それらは別の表現に思えるが共通性を持っている。

小説を書いていたと思えば、その一部分が絵本となって切り取られたり、その絵本の物語が、一枚の絵画になり、そして、そのメッセージが彫刻にも込められている。あらゆる表現を縦横無尽に駆け回っている。

私は、新宮が彫刻家と呼ばれたり、造形作家と言われているがどれもしっくりとは来ていない。どこかに固着し、固まっていない新宮の活動の表現する最適な言葉を未だに見つけられずにいる。80歳を超え、ますます多忙を極める彼は、正しくも無いが、軽い言い方をしてしまえば『マルチアーティスト』なのだ。

しかし、これほどまでに世界中からオファーを受け世界中を駆け巡る新宮の存在を肝心の兵庫県や、地元の三田市には知らない人が多い。その理由を後に新宮は私に語ってくれた。

『忙しすぎて、そういうことをあんまりやってこなかったんですよ。』

『いやいや、そこはやろうよ!』って正直なところ私は思う。

しかし、そんな無理を言えない実情もある。新宮は本当に忙しすぎるのだ。

海外からのオファーを受けてしまえば、新宮は宇宙以外なら現地に飛んでいく。ある時はトルコ・ギリシャ・ウルグアイ・ニューヨークと世界のどこでも飛んでいく。しかし、大抵はその後は日本に戻らず、パリの家に立ち寄り、パリにある契約ギャラリーとの打ち合わせ、そして、同じくパリの老舗出版社ガリマールで新しい絵本の出版打ち合わせを並行する。パリのギャラリーは新たな新宮の作品を待ち続けているし、ガリマールからは、常にオファーが溜まっている状態である。

その間もパリの家で作品の構想を練る日々を過ごし、ようやくそれが固まった後に自宅とアトリエのある兵庫県三田に帰ってくる。日本に居てゆっくりと自身の活動の報告をしたり、広報的な活動をする時間の余裕は、彼にはないのである。

ましてや、自身の事を人にわざわざ説明することを彼はしない。文字通り、新宮にそんな時間はないのである。しかし、私は未来に暮らす兵庫県の人々は、新宮晋という存在に感謝する時が必ず来ると信じている。彼は今、とんでもない事を考えているのだ。その内容、全容に関しては、対談当日に新宮本人の口から語られることになるだろう。あまりにもスケールの大きな新宮晋というアーティストを、この対談を通じて初めて知るという方は心の準備をしてくる事をお勧めする。

そして、参加者の皆さんは、アーティストとして、一人の人間として彼の存在に触れることで、自分の何かが変わる体験ができると私は思っています。


多忙という点においては、落合陽一も然りである。

彼も同じく世界を駆け巡っている。以前にも書いたが、彼を捕まえ打ち合わせをセッティングすることは、かなり困難なことだ。『忙しい』『世界を駆け回っていること』が落合と新宮は似ている。だからここを『共通性』として対談をやろうと考えているわけではない。今回のイベントをやろうと思った最大の理由は『二人の「ある」共通性』を見出せたからなのだが、それをここで書いてしまうことはしない。ここで書いたら、もう終わってしまうからだ。そこは、是非イベント当日のお楽しみに取っておいてもらいたい。

テクノロジーは人間をアップデートするものという落合は研究者であり、そのテクノロジーやサイエンスが表現に色濃く現れる彼のアート作品は、カテゴリーに分類することは難しい。よって彼を表現するときには『メディアアート』という便利な言葉が使われる。しかし、この言葉で彼の作品を表すことに、私はしっくりこないと思っている。よって『メディアアーティスト』と彼を呼ぶことにもしっくりきていない。所謂、規格外のアーティスト。それが落合陽一なのだ。

彼の作品を、そして、彼自身をどう呼ぶかはその言葉自体を創り上げる。もしくは言葉が持つ意味を拡張しなければ表現することは不可能だと私は思っている。

落合陽一、新宮晋。こんな二人の対談。一体、誰がモデレーターをするのが良いか。プロの人にやってもらう方が絶対いい。しかし、良い意味で『規格外』の二人の対談は、何が飛び出すか解らない。

そんな対談を進行するモデレーターはどんな人が最適だろうか。
新宮のことを知っているだけでは不十分。
もちろん、落合を知っているだけというのも不十分。
芸術のなんちゃらについて、見識をお持ちのお偉いさんでも不十分。

そんな人たちでは、間違いなくこの二頭の跳ね馬たちを乗りこなすことは出来ないだろう。いや、彼らは馬ではなく、ペガサスだ。この二頭のペガサスに繋がった馬車がこの対談イベントだ。一体、誰がこれをまとめ上げるのか。それが問題だった。

企画者としての責任。

つまりは、そういうことだ。私自身がペガサスの馬車に御者として乗り込むしかなかった。ペガサスとは何かあったとしても飛ぶことができる。しかし、馬車(対談イベント)と御者(私)は暴走を、御せなければ谷底に真っ逆さまというわけだ。

怖すぎるよ。
ハイ・リスク過ぎる。

ボクシングに例えると
落合陽一の高速回転型デンプシーロール。
新宮晋の重厚なファイティングスタイル。

厄介なのは、私がレフリーならばまだ気持ちが楽なのだが、今回は私が対戦者である。私にとっての聖書。『はじめの一歩』でいうところのリカルド・マルチネス 2人 VS 伊達英二。つまり、リングの上に三人が居て、落合陽一 VS 私 & 新宮晋 VS 私が同時に行われている状態をイメージしてほしい。

地獄だ。

このままでは、
『Good-bye
  エイジ・ダデ!!』
『ドンッ』状態×2になってしまう。

なので、私は対策を講じた・・・
その対策とは・・・



6/3 続・完結編3へ つづく…

いよいよ次回こそ完結!終われそうだ!



【お知らせ】新型コロナウイルス感染症への対応に関して』を公開しました。**

こちらご一読いただきまして、各自ご対応をよろしくお願いします。


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