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鍛えるなら熊野古道、発心門王子〜熊野本宮大社

熊野の旅2日目は熊野本宮大社に行きました。

熊野本宮大社までは「発心門王子~本宮大社」間の約7kmの熊野古道を通って行くことにしました。

まず発心門王子(ほっしんもんおうじ)までバスで行き、そこから古道に入ります。

こちらのコースは本宮に続くハイライトということもあり、紀伊山地の山深い奥にあり、人の気配を全く感じない霊山の名にふさわしく恐ろしい雰囲気を感じました。(※あくまで個人の感想です。)

同じバスで発心門王子まで来た他の乗客もいたはずなのに、私がお手洗いに行っている間にだいぶ先に進んでしまったのか、お手洗いから出ると辺りに人の気配はなく、乗って来たバスも行ってしまい、ポツンと一軒家ならぬ、ポツンと一人になってしまい嫌な予感がしました。

水呑王子跡

歩き始めると誰もいない不安を右脳がジワリジワリと感じるのと同時に、山深い自然の中では人の気配なんてあっという間に消し去ってしまうものなんだ、と左脳がロジカルに分析していました。

山間の集落

頭では快晴だしまだ午前中だから大丈夫と思っていても、どことなく薄暗い里山は不気味で(※あくまで個人の感想です。)、そこを抜けると本格的な古道に入り、不安は恐怖になりました。

「ここは人がいてはいけない場所なんだ」と、感じました。(※あくまで個人の感想です。)

蘇生の森ってあの世のこと??
山深い
どんどん山深くなる
どんどんどんどん山深くなる

紀伊山地の真ん中にポツンと1人だと思うと恐怖に襲われ、無限に広がる周囲を見たり考えたりすると恐すぎて、左脳では落ち着こうと「今ここに集中」とか「本宮に着いた少し先の安堵」を考えたけれど、そんなの無意味で肌で感じる恐怖は強烈でした。

古道だけあって心臓の鼓動がバクバクでした。💦

途中お手洗いや休憩所があり、少し落ち着くこともできましたが、元関所だったという九鬼ケ口のの文字を見ただけで怖くなり、また森を通らなきゃならいと思うと鼓動がドキドキして来ました。

昔はお茶屋や関所があった場所

霊山を甘く見たことはないけれど、山の中でポツンと一人、無力な自分に頼れるものは、本宮まで続いている「道」と歩ける「足腰」だけでした。

嫌々だけどどのみち「行くしかない」と腹をくくり、いざ森へ。

もののけいそうで怖い💦
走って逃げる!
人よりクマが出る!!

大斎原(おおゆのはら)を見晴らせる丘があるようなので、一旦そこに行って気持ちを整えようとしました。

心なしか遠く感じる大斎原の鳥居。。後どのくらいだろう?
フラーレンで心を落ち着かせようと試みた。。

景色は良かったけれど、根っこの部分の恐怖心が収まることはなく、チャネリングすると「死の恐怖」と「(森の中には)怖がらせようとするのもいる」と、言われました。

地図を見るとここから本宮大社まで残り1キロちょっと。あとはダッシュで森から逃げることにしました。

下りだったのが幸いです。

なんとか熊野本宮大社に到着。
数時間ぶりに人がたくさんいるのを見てホッと安心しました。人がいるってそれだけで良いって感じです。

熊野本宮大社
ひと息ついてお詣り。


ただ後から考えると、今回の旅の目的は鍛えるためでもあるから、道は平坦だったし、もしかしたら恐怖を煽って走らせたかったのかもしれないと思いました。💦

とはいえ、今回のことから学んだことはたくさんあります。

学び1、「恐怖を感じたら(考えてないで)逃げる」
当たり前のことかもしれないけれど、現代人って左脳が発達している人が多いと思うので、怖さを感じても感じないふりをしたり(私はそうだったのですが)冷静になろうとするんです。でも怖いと感じたら、落ち着こうとぜずに走って逃げる。
考えていると恐怖が大きくなるし、そもそも考えている暇なんてないのです。

学び2、「人の温かさ」
普段人混みの都会や街中にいるとそれだけで疲れてしまうことがあるけれど、人の気配がまったくない所はそれだけで恐怖でした。当たり前の良さは当たり前じゃないことを体験すると、その良さがわかったりします。

学び3、「自然をニュートラルに見ること」
自然の少ないところにいると自然に癒されたくなり自然崇拝してしまうけれど、自然は時に脅威ってことも忘れてはいけないのです。


山伏がいました。

山伏

曼荼羅。



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