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032 好きに完璧さはいらない

春という季節の魅力はたくさんあるけれど、その中でも特に雪がすっかり溶けたあとの茶色の景色の中から、緑が少しずつ姿をあらわす瞬間がとても好きだ。

アジサイの葉が伸びてきてる
名前がわからない、、
ルピナス
スイセンとスノーフレーク
タンポポもひっそり
フキノトウもあっという間に増えていく

わたしの母も母方の祖母も花を始め植物が好きだった。
父方の祖母はわたしが生まれる前に亡くなったので会ったことはないが、本家の伯母さんもとても上手に植物を育てる人で、素朴だけれど美しい庭を作り上げていた。


わたしは植物の世話が得意ではない。
ひとり暮らしをしていたころ、観葉植物の中でも丈夫と言われるガジュマルを枯らしてしまってからずっとそう思っていた。
たくさんの植物を大切に育てていた身内を思い出すと、そのことはちいさいながらもけっこう重大なコンプレックスのように感じられた。

花も好きだし植物も好きだけれど、それをハッキリと「好きです」と言えない感じがあって、それはやっぱり母や祖母や伯母の姿を見てきたからだろう。

でもやっといまになって、
「わたしは植物が好きなんだな。母たちのような愛情の注ぎ方ができるわけではないけれど、わたしなりに興味と愛を持って彼らを見ているんだな」
と思えるようになった。そう思っていいんだと思った。



いつだって自分のことを中途半端だと思ってきた。
読書は好きだけれど、純文学は数えるほどしか読んだことがない。海外の作家はほとんど知らない。
音楽は好きだけれど、好きなアーティストの全CDを持っているだとか全曲イントロクイズで正解できるだとか、そこまでの熱心さはない。
絵を描くことは好きだけれど、毎日絶対に描かなきゃ気がすまないんです、というわけでもない。


いつだってわたしの「好き」は、「ほんとうの好き」ではないような、そんな感じがあった。
でもそれは決して中途半端なわけではなかった。

そのひとには、そのひとの愛で方があるのだ。

わたしはわたしの愛で方で、好きなものと接すればいいだけだった。

立派な蔵書がなくても、「本が好きです」って言っていいし、水を変えるのが3日に1回でも、「花を飾るのが好きです」って言っていいし、新作のアルバムの発売日を知らなくても「このアーティストが好きです」って言っていい。

好きに完璧さはいらない。
ただ、自分のやり方で、好きという思いだけを純粋に大事にしていけばいい。

庭にでた緑の芽や葉見つめながら、そんなことを思った午後でした。