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映画「アフター・ヤン」感想~まなざすこととまなざされることの快楽~

人間は、自然や宇宙という広大無辺な世界の中にいるのに、時にそれを忘れて、全てを知り手に入れられると思い込みます。

本作は「世界の中心に人間がいる訳では無い」という「当たり前」の事を気付かせてくれ、その事実を、胸の中で昇華する快楽を教えてくれました。

ストーリーは以下の通り。

未来の世界で中国系の養子の女の子のために、アジア系の風貌をしたアンドロイド、ヤンを「家族」として迎え入れ、母、父、子、ヤンの「四人」家族で幸せに暮らしていました。しかしヤンが停止してしまい、故障部位の関係で修理する事が法に触れる、という事態になってしまいます。試行錯誤の末、失意の中にいた家族は、ヤンのメモリーを再生し、ヤンの視点からの家族との日々、そして家族と出会う以前のヤンの歩みを振り返って行きます。

大まかな流れは以上の通りですが、本作は静謐な時間が全編を通して流れ、美しい空間で物語が展開します。木漏れ日の森、夜の森、雨の日、お洒落で広く均質的な家々、宇宙で星々を巡っているようなヤンのメモリーの中身……空間と調和した音楽により、「観て聴くマッサージ」のような映画になっています。

登場人物たちが交わす会話も、要所要所で哲学的な内容が語られ、宇宙や歴史について、静かな演出の中で考えるよう、観る人に促してきます。

しかし結局、哲学的な事を考え続けた末に、「考えない」事を学ぶための映画ではないかと、私は思いました。

ヤンには幅広い知識がありますが、たまにヤン自身のメモリと知識の間にズレが生じ、ヤンが言葉を継げないシーンが出てきます。しかしそのズレこそが、物語の核心を伝えていたように思うのです。

ヤンの持つ知識も、人間界の見方を反映しているものなので、「人間中心で考え、あらゆる物事に意味を見出そうとする」限界があります。こうした人間中心主義的な執着は、物語の途中まで、ヤンを失った家族の苦しみを増大させます。

一方、人間界の知識での生き止まりを越え、ヤンは無意味の豊かさを語ります。そしてそこから、「まなざす人間」から「まなざされる人間」という、新しい視座に繋がっていくのです。

無意味の豊かさというのは言い換えれば「大きい世界も小さい世界も、どこも同じ」という事だと思います。
ヤンと父が、お茶について哲学的に話すシーンがあります。その中で、あるドイツ人が、「お湯の底に沈む茶葉」と「森の雨が打ち付け、落ち葉が濡れる景色」を重ね合わせたという話が出て来ます。また、お茶を飲むことで歴史や世界を感じる、という話もありました。

広大な森で起きている事は、急須の中でも起きているかもしれない。そしてそれを身体の中に取り込む事ができる。逆にそれは、「ここにしか無い特別な事」は無いという事かもしれません。特別だと思っていた事は、更に大きなスケールか、もしくは逆に小さなスケールで起きているかもしれない。

ヤンのメモリーを辿る旅も、前述のように、巨大な宇宙空間に浮かぶ星の一つ一つを選択していくような映像が流れます。
選ぶ星によって、ヤンがいつ、どこで、誰と、どのように過ごしたか、それぞれ違う歩みが見れる訳です。
夜空の星々を観ていると綺麗だな、と思う一方、どれか一つの星を特別綺麗だ、と思う事はあまりありません。
同じように、ヤンと自分以外の人との記録を振り返る事で、ヤンとの特別な関係を得られていたと思っていた自分の気持ちが揺らぎ、時に喪失感となります。しかし、特別優れた星が無いように、別な人とも特別だったかもしれないが、それと同じくらいヤンにとって、自分は特別だったかもしれません。

自分が所有していたと思っていた何かもまた、自分をまなざしていたし、自分以外の何かを見ることもあった。こういう当たり前を実感させてくれる本作は名作です。

そして、愛した人がまなざした私と、愛した人がまなざした「私では無い誰か」を、喪失や嫉妬を越えて繋ぐものとして、「歌」が本作では取り上げられていました。

私はただメロディのようになりたい。
ただ簡単な音のように
調和の中に

「グライド」

「歌」は時間を、空間を越えて歌い継がれ、直接繋がりが無かった人が同じメロディを口ずさんだりします。それはどのような人との記憶も平等に保管されたヤンのメモリーさながらで、風に乗り、平等に人々の耳へ届きます。「何もかも無くなっても歌は残る」というCoccoの言葉を思い出しました。

人間だけが特権的に文明の利器で世界中を飛び回り、あらゆるものを分類、意味づけしていくのでは無く、遥か彼方の星も足元の砂も平等な自然の一部として、意味づけから解放されていく。
映画のパンフレット内でも触れられていましたが、コロナもあり、大国間の対立もあり、環境問題もある中で、人類の生存危機が実感できるものとして、私達の傍に降りてきている事。諸行無常を呼吸で感じ取るような背景が、この映画にはあるのかもしれません。

「グライド」は元々映画「リリイ・シュシュの全て」のエンディング曲で、エンディングシーンではいじめ、暴力、売春等の被害や巻き添えになった主人公が、ただただ一面の田の中で、空が綺麗な日に音楽(リリイ・シュシュ)を聴きながら佇んでいます。

地上の悲惨さと愚かさに縛り付けられた分、どこか別な世界に飛んでいけるようなシーンには胸を打たれます。

しかし「アフター・ヤン」の「グライド」は、徐々に失われゆく時間の静かさや美しさを讃えているようです。曲のサウンドも、映画自体も。
それはオリエンタリズムとはまた違った、海外からの日本への視線を反映しているようにも思えるのです。

日本にいる私も、海の向こうからの眼差しを受け止め、眼差し返すために、ゆとりを持ちたいものですし、そうした価値が尊重される社会になるための「感性トレーニング」として、もっともっと多くの人に、この映画を観て欲しいと思います。


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