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チャイコフスキーの交響曲第5番の思い出

 (これは私がときどき書くクラシック音楽オタクネタです。それでもよいというかただけ、お読みください。曲は有名な曲ですけれど、書こうとしていることはかなりオタクっぽいと思います。)

 チャイコフスキーの交響曲第5番という曲は、アマチュア・オーケストラが、じつにひんぱんにやる曲です。どれほど客席で聴いたかわかりません。じつはアマチュア・オーケストラの曲というのは、ほとんど「編成」と「難易度」で決まっています。「名曲度」については、だいたい古今の名曲ばかり生き残っているのがクラシック音楽の世界なので、それほど決め手ではありません。もちろん「やりたい」と思う人がいなければ選曲はされませんが、最も決め手になっているのは、やはり「編成」と「難易度」だと言えましょう。

 ではこのチャイコフスキー5番の編成上のメリットはなにかと言いますと、トロンボーンとテューバがちゃんとあり、しかもちゃんと活躍するということです。

 オーケストラの曲では、けっこうトロンボーンのない曲があります。ベートーヴェンの交響曲でも、5番、6番、9番を除いては、トロンボーンはありません。テューバは9曲まったくありません。モーツァルトやハイドンの交響曲はもっといろいろなものがないです。「ないならないでいいではないか」ということにはならないのです。通常の編成のアマチュア・オーケストラであれば、トロンボーン3とテューバ1の団員は在籍していることがほとんどだと思います。そして、「交響曲」というのは、休憩後の長い時間を費やして演奏されることが多いです。(たとえば短い交響曲であるシベリウスの7番であるとか、ベートーヴェンの8番みたいな曲は、前半の最後の曲になることが多いです。そしてベートーヴェンの8番みたいな曲はトロンボーンもテューバもなく、ホルンやクラリネットは極めて難しく、しかも弦も極めて難しいので、これだけ悪条件がそろうと、いかにベト8が名曲であろうとも、なかなか選ばれないわけです。私も生でベト8を聴いた経験はないと思います。みなさんも、アマオケでベト8を聴いた経験ってあります?あるいは、やったことあります?なかなかないはずです。)とにかく、団員は「足りない」心配だけしていてもダメで「余る」心配もせねばならないのです。団員を「失業」させてはいけない!これはアマオケの編成上の悩みです。もうひとつ言うと、このチャイコフスキー5番は、他のチャイコフスキーの交響曲と違い、打楽器がティンパニ1人しかないため、打楽器の団員さんのたくさんいるオーケストラでは、前半にたくさんの打楽器の出番のある曲を選曲せねばならないケースも発生しますが、この問題はそれほど深刻ではないことが多いと思います。

 難易度の話になります。いや、この曲が「やさしい」とは言いません。オーケストラの曲は、どれも難しいものです。この曲は「やさしい」というより「やりやすい」曲だと言えます。きっちり精緻に仕上げなければならないというよりも、ノリと勢いで持って行ける面もあり、また、派手な終わり方をするため、途中が情けなくても、最後は拍手がいただけると、そういう曲であるわけです。そのためによく取り上げられる曲だということになります。

 ぜんぜん曲そのものの説明ではないですが、この曲はあまりに有名なので、曲そのものの説明は、他のたくさんの人に任せまして、とりあえず私はなぜアマオケでこれが取り上げられやすいのかの説明をいたしました。これと同様の理由で、アマオケがよく取り上げる交響曲をあといくつか挙げてみます。
・ベートーヴェンの「運命」(難しいですけど、ホルンの難易度もそれほど極端ではないし、トロンボーンもある。テューバはないですけど。また、極めて派手な終わり方をする)
・ドヴォルザークの8番(これも弦の難易度もほどほどで、チャイ5と同様「やりやすい」タイプの曲。「新世界」のような「テューバ問題」みたいなものが発生しないし、終わり方は派手)
・ブラームスの2番(これは弦の難易度は少し上がりますが、編成上の問題で選ばれます。ブラームスの他の交響曲はテューバがなくてコントラファゴットがありますが、この曲はコントラファゴットがなくてテューバがあります。また極めて派手な終わり方をします。)

このあとにシューマンの1番あたりが続くでしょうか(ちょっとおかしい?)。これらの仲間で、チャイ5はよくやるのです。

 そして、アマオケにとっての難しさは、プロオケにとっての難しさと一致することも知っていますので、この曲はプロオケにとっても「やりやすい」曲だということが言えます。以下のオケが持ってくる曲もじつはこの曲です。(律儀にお読みにならなくてけっこうですが、この駄文よりはおもしろい可能性のある記事だと思います。)



 それから、順番がおかしいですが、私がこの曲について思っていることを書いた記事もはっておきます。これも律儀にお読みになることはなく、スルーなさってください。


 さて、オーケストラの曲というのは、まず自分の意志では決められません。あんなに人数がいるのですから、まず選曲に自分の意志は反映できないのです。私は学生時代に厳密な多数決で曲を決める学生オケにいましたが、それでも、膨大な時間と労力を使った上で、決まる曲はなかなか無難な曲であるものでした。それでも決まったからには納得してやらねばなりません。ですから、アマチュア・オーケストラを細く長く楽しむコツは、「やると決まった曲を好きになる」ということなのです。曲とも「出会い」なのです。私の友人で、グリーグのピアノ協奏曲やドヴォルザークのチェロ協奏曲を心から軽蔑している人がいました。フランクの交響曲を嫌っていた仲間もいましたね。そもそもこのチャイコフスキーの5番や「ロミオとジュリエット」が大嫌いな人もいた!それは、いくら嫌ってもけっこうですが、損をしていると言わざるを得ません。「やると決まった」からには、好きになってやったほうが得です。

 そんなわけで、私は、じつはレッスンで習う曲も、ほとんど自分で選ぶことはなく、ほぼすべて先生から与えられる曲をやってきました。おかげで、自分だけでは知り得なかった驚くほど珍しい名曲とのたくさんの出会いがありました。演奏会もそうです。曲で選んでいるのではなく「仲間が出演する」演奏会を聴いてきたのです。おかげで、かなり珍しい名曲を聴くこともできましたし、そしてこのチャイ5のような曲は、もう数えきれないくらい聴いてきたわけです。その代わりマーラーの9番を生で聴いたことがない、などの状況は起きますけどね。それはともかく、演奏会も私にとっては出会いなのです。ついでに言うと結婚も出会いであり、「好きな人と結婚する」以上に「結婚した人を好きになるしかない」面があります。「親ガチャ」という言葉も聞きますが、それを言ったらすべてはガチャであり、配偶者ガチャ、子ガチャ、学校ガチャ、先生ガチャ、クラスメートガチャ、病院ガチャ、医者ガチャ、教会ガチャ、牧師ガチャ、出身地ガチャなど、およそあらゆるものはガチャではないかと思います。そのうちのひとつが「今度、演奏会でやることになった曲ガチャ」であるわけです。まあ、嫌いな曲はしようがないですけど、やってみたら意外と楽しいということがあり、それに、長く続けていればいつかあこがれの曲もやれるし、「曲とも出会い」ですね。

 そこでもっと脱線すると、インターネットというのは、意外と不幸なのかもしれませんね。自分の興味のあるものしか出ないからです。私のパソコンから決してサッカーやラグビーは出ません。(もっともオネゲルに「ラグビー」というオーケストラ曲がありますが、私とラグビーの接点はそれくらいです。)私はスポーツ全般に興味がないからです。「道を歩いていておいしそうな店を見つけて入った」とか、「新聞を読んでいて興味はなかった記事だったが読んでみたらおもしろかった」みたいな「出会い」があまりないわけです。たとえば教会の人が「キリスト教について多くの人に知ってもらいたい」と思ってインターネットで発信しても、結局、興味のある人しか見ていませんし、それから、私がこうして大々的にブログに書いてしまっていても、マンションのすぐ上の階の人も下の階の人もこれを知りません。それどころか、(私の書くことはすべてフィクションですが)私の元教え子たちのあいだでもどうやらこのブログはあまり知られていないらしいことがわかりました。私みたく「バレたくない」と思っている人間には好都合ですけど、さきほど申しました通り、広めたい人間には不都合です。教会に限らずあらゆる商売で。

 それで、ようやく脱線から戻りますが、そういうわけで演奏会とも「出会い」という方針で聴いてきた私は、やたらとこのチャイコフスキー5番は生で聴いてきたわけです。学生オケだけ列挙しても以下の学校で聴きました。すなわち、都立大、東工大、宇都宮大、宇都宮高校(嫌というほど聴いた東大と早稲田で一度もないのが意外ですね)。さらに社会人オケだと、会社のオケ(大きな会社は部活があるみたいですね。会社のオケというのはあります)で2回聴いた記憶があります。吹奏楽編曲で全楽章を聴いたこともありますよ!原調でした!とにかくよくやりますし、いずれの演奏会も、強烈な記憶として残っています。いずれも、いつか記事を書きたいくらいです。思わぬ事故のあった演奏、第2楽章のホルンがえらくうまかった演奏、指揮者が超個性的だった演奏(アマチュアオケの世界には、まだまだ個性的な指揮者がたくさん残っています)、とにかくいろいろ思い出します。

 私自身の経験ですが、一度もやったことはありません。ただし、以下の2回の経験があります。一度は、大学の初見大会です。卒業する先輩が協奏曲のソロを務め、後輩たちが初見大会で伴奏するという素敵な企画が毎年あったのです。「この曲は協奏曲ではないではないか」と思われるでしょうが、次のようなことがあったのです。その先輩は打楽器でした。あまりにオケに夢中になりすぎたのか、留年に留年を繰り返し、えらく年上の先輩だったと思います。ついにその先輩も旅立ちのときがきました。その先輩は「指揮」を選んだのです。曲がこの曲の第4楽章。つまり初見大会ですが演奏したのです。3番フルートを吹きました。非常に情熱的な指揮で、胸を打たれたのを思い出します。そのころ所持していたCD(いまも持っていますが)である、ストコフスキー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団のデッカの録音を真似して、フルートで吹くべきところをピッコロで吹いたりしました。楽しかったです。

 そういえば、高校時代に「1分間指揮」という文化祭の企画で、キャラの個性的な先生に指揮してもらうという楽しい出し物があり、この曲の一部を、あるユニークな物理の先生の指揮で演奏したことがあるなあ。

 それはともかくとして(繰り返しますが私の書くことはすべてフィクションです)、ずっとのち、学校の教員をして、オーケストラ部の顧問だったときに、オケがこの曲を取り上げたことがあります。非常に独裁的で嫌らしい上に実力が皆無という最悪のコーチのもとで取り上げたのですが(そもそもそのときにトロンボーンの団員もテューバの団員もいなかったと記憶するので、この曲を選ぶ理由がありませんが、そのコーチは賢くないのでこの曲を選んだのです)、そのときに、ライブラリアン(楽譜の管理の係)をやらされたということがあります。たしかに私は出演していませんし、指揮したわけでもありませんので「やった」とは言えません。しかし、あのコーチのもとでライブラリアンをやらされるというのは、ある意味で出演する以上の重荷であり、もうそれだけでこの曲を「やった」と言ってもいいくらいにこの曲には出会っていますけどね。以上が、私のこの曲との「やった」出会いのすべてです。

 あとは、鑑賞の話にしましょう。まず、以下に、最近買った、外山雄三(とやま・ゆうぞう)指揮、大阪交響楽団のCDの感想の記事をはりますね。それも駄文ですしこれも駄文ですので、お読みになる価値があるかどうかはわかりませんが、まあ律儀にお読みにならずにスルーなさってくださいね。


 それから、上にもちょっと書いたストコフスキー指揮のCDがあります。私がはじめて買ったこの曲のCDでしょう。すでにストコフスキーにはまりつつあり、結局、この曲のストコフスキー指揮のあらゆる音源は持っていると思います。以下に「チャイコフスキー交響曲第5番の全録音のリスト」を作っている稀有な人のサイトをはりますが、この人が持っていないものも2種、持っていますよ。それはすなわち、ストコフスキー指揮ハリウッド・ボウル交響楽団の1946年のライヴと、ストコフスキー指揮ニュー・フィルハーモニア管弦楽団による1966年のプロムスのライヴです(さきほどから書いているデッカの録音と同時並行で行われたと思われる演奏会のライヴ録音です)。


 この人のレビューは確かなものがあると思います。ストコフスキーのいくつかの録音についても適切なレビューを書いておられ、外山雄三盤についても的確です。

 ストコフスキーはこの曲を得意としており、「オーケストラの少女」という映画でも、冒頭はまずこの曲の第4楽章ではじまります。ストコフスキーは完全にこの曲を自分のものとしており、曲に強烈に踏み込んでいますが、それは決して嫌なものではなく、むしろストコフスキーのこの曲にたいする深い愛情と理解を示していると思います。ときどきいる、聖書を愛するあまりに踏み込み過ぎる解釈をする牧師にも似ているかもしれません。そういう意味での「個性的」は大歓迎です(たんに気をてらっているのはダメ)。私はきちんと修めた学問は数学だけですので、どうしても数学の例になりますが、他人の論文の紹介をするときでも、発表で見られているのは、「いかにその論文を自分のものにしているか」でした。「その論文の図よりこっちの図のほうがわかりやすいと思うな」と思ったら変えていいのであり、「その補題はなんのためにあるのだ?なくてもいいじゃないか」と思ったらカットしてもいいのです!ストコフスキーのやっていることはまさにそれです。

 それで、ストコフスキーのさらなる特徴は、「じつはオケにやりたいようにやらせている」ということです。聴いた感じ「指揮者がやりたいほうだいやっている」ように聴こえるストコフスキーの演奏ですが、じつはその秘密は、「オーケストラにやりたいようにやらせている」ところにあるのです。だからオーケストラ受けがいいし、オーケストラは生き生きとして演奏するので、かえって名演奏になるし。これを客演のオーケストラでもなしとげるストコフスキーの手腕はいかほどか。たとえば北西ドイツ放送交響楽団ライヴや、シュトゥットガルト放送交響楽団ライヴのように、明らかにオケが「へた」と思われるケースも、圧倒的な「指揮者の芸」で聴かせてしまうという芸当までできます。私も短期間ながら指揮者の経験がありますので、ストコフスキーのすごさは肌でわかります。指揮者の小林研一郎の「オーケストラにやりたいようにやらせて、じつは指揮者のやりたいようになっている」のを理想としているような発言を読んだことがありますが、ストコフスキーはまさにそれができた大指揮者だということが言えます。ちなみに客演のときによく持って行った曲なので、ストコフスキーのこの曲のライヴ録音は世界中に残ったというわけです。やはり客演のときは得意な曲で行くのでしょう。牧師も他の教会に呼ばれて説教するときは、自分の得意な話を持って行くのに似ています。これはどの演奏家でもそうでしょう。

 外山雄三はストコフスキーとはタイプが違い、オーケストラに君臨するタイプですが、それで言うことを聞かせてしまう指揮者は、この21世紀においては稀有と言えるでしょう。

 ストコフスキーと外山雄三以外で何回も聴きたくなる演奏は、たとえばスヴェトラーノフ指揮NHK交響楽団のYouTubeにある演奏でしょう。スヴェトラーノフのこの曲はソヴィエト国立交響楽団を指揮した強烈な演奏がありますが、N響を指揮した演奏を聴くと、あれらのソヴィエト国立の強烈なトランペットやティンパニはスヴェトラーノフがやらせているのではなく、「オケのやりたいようにやらせている」ということがよくわかります。

 最後に、チャイコフスキーのエピソードを書いて終わりにしましょう。なんと、チャイコフスキーはこの曲を作ったとき、これを失敗作だと思っていたらしいのですね!メック夫人にあてた手紙にそう書いてあるそうです。これほどの人気作をね。いかに人は自分で書いたものを自分で評価できないかの見本じゃないかと思います。こんな駄文を最後までお読みくださりありがとうございました。

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