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ひっかかる聖書の言葉
聖書に出てくる、私のひっかかる言葉を集めました。くだらないかもしれませんが、よろしければお読みくださいね。(細かいのを挙げだしたらキリがないですが、なるべく有名な箇所を挙げました。)
「いと高きところには栄光、神にあれ。
地には平和、御心に適う人にあれ。」(ルカ2:14)
御心に適わない人には平和はないのですか。けち。
「あなたがたは鳥よりも価値あるものではないか。」(マタイ6:26)
そうは思えないけどなあ…。鳥は環境破壊しないですよ。「ざんねんないきもの」って、人間のことではないですか。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。」(マタイ11:29)
柔和で謙遜な人が、自分で「柔和で謙遜」って言うかなあ…。
「あなたがたは世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)
イエスだけが世に勝っているのか?それとも、イエスにつながっているわれわれは皆、世に勝っているのか?やはり、つながっていないと、「外に投げ捨てられて枯れ」、「火に投げ入れられて焼かれてしまう」(ヨハネ15:6)のでしょうかね。
「わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である」(ヨハネ8;18)
裁かないのですか?裁くのですか?
「目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。」(詩編121:1)
わたしの助けは山々から来ると言っているのか、それとも、これは反語で、わたしの助けは山々から来ないと言っているのか。
「宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ」(ルカ14:13-14)
これは前にも書きましたね(リンクがはれなくてすみません)。招かれる側になって読めばすぐに感じることですが、お返しができないのは、つらいですよ。しかも、それで招いた側が「幸いだ」って、どういうことですか?
「この二人にはボアネルゲス、すなわち、「雷の子ら」という名を付けられた」(マルコ3:17)
でも、誰も彼ら(ヤコブとヨハネ)を「ボアネルゲス」とは呼ばないんですよね。まあ、付けたはいいけど呼ばれないあだ名はありますけどね。「ペトロ」はヒットしたあだ名ですね。もっと有名な例を挙げますと、「その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)ですね。だれもイエスを「インマヌエル」とは呼ばないではないですか。なぜですか。
「それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。」」(ヨハネ20:27)
どうしろって言うんですか?指を当ててから、手を見る?
「彼らが永久に恥じ、恐れ
嘲りを受けて、滅びますように。
彼らが悟りますように
あなたの御名は主
ただひとり
全地を超えて、いと高き神であることを。」(詩編83:18-19)
滅んだ人が悟りますかねえ…。
「時宜にかなった言葉はいかに良いものか」(箴言15:23)
少なくとも私は、「時宜にかなった言葉」って、とっさに出ないから、困っちゃいますね。
「愚かな議論、系図の詮索、争い、律法についての論議を避けなさい。」(テトス3:9)
しかし、聖書って、系図、だいすきですけどね。律法もだいすき。
「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。」(コリント一9:22)
「得る」ってどういうことでしょうね。「信者獲得」しか考えてないんでしょうか、パウロは。
「規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました」(エフェソ2:10)
でも、イエスは律法を「廃止するためではなく、完成するため」に来たんでしょ?(マタイ5:17)
「盲人は、すぐに見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。」(マルコ10:52)
盲人バルティマイの話のなかで、この後半(イエスに従った)を強調する人がときどきいますが、ひっかかるのは、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(14:50)と書いてあること。「皆」ということは、バルティマイも逃げたんですよね。
「そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」(ヨハネ12:1)
私の友人が、「聖地巡礼」して、「ラザロの墓」を見たと言っていました。1回目の?それとも2回目の?(2回目のがなければ、ラザロはいまも生きていることになる)
「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい」「もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい」(マルコ9:43、47)
でも、少なくとも私は、ほんとうに片手を切り捨てたり、片目をえぐり出したりしている人を、現実に見たりしたことはないんですよね。手や目につまずかされることって、あると思うんですけど。(私も諸先輩にならって、手や目がつまずきになることがあっても、切り捨てたりはしていないです。)
「神の人モーセの詩」(詩90:1)「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても」(90:10)
モーセって、八十歳で召命されて、それから荒れ野で民を率いて四十年、百二十歳まで生きるんですよね…。
「体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。」(二コリント12:2-3)
同じことを2回、言わなくてもいいのに。
まだあると思いますが、長くなるのでやめますね。ひっかかるところは、いくつもあります。以上です。お読みくださり、ありがとうございました。
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