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おのれうそを教えやがったな!

 (以下の記事には、やや専門的な数学の話が出てきますが(といっても大学初年度くらいまでですが)、数学が苦手であるという多くのかたにもお読みいただけるような記事を書くつもりです。もっともおもしろい話かどうかはわかりませんが…。)

 6年くらい前、私がまだ中高の数学の教員だった時代の話です。ある若手の社会の先生が言っていました。「あえてうそを教えることもありますよ」。その意味はわかりました。数学で言えば、それがどういう状況であるかを、以下に書きたいと思います。

 小学校の算数で「引き算」を習います。3-2は1になりますが、2-3はできないことになっています。「小さい数から大きい数は引けない」からです。確かに、3個あるパンを2個食べたら残り1個になるのに対し、2個しかないパンで、3個食べることは不可能です。その意味では小学校で習うことは正しいのですが、中学に入るとマイナスの数を習い、2―3は―1(マイナス1)であることを学ぶのです。このさい「おのれ小学校の先生はうそを教えやがったな!」と思う人はほとんどいないと考えられます。「うそも方便」というべきか、習い始めは「小さい数から大きい数は引けない」と習うのが理に適っています。引き算の歴史から見てもそうでしょう。人類はまず「1、2、3、4…」というふうに数を数えました。分数はいろいろな古代文明でも知られていたようです。小数を考案した人の名前は残っていますが、偉大な人ですね(なにごとも最初に考える人は偉いと思います)。0(ゼロ)を発見したのも古代の人で、マイナスの数はそれより後です。ちゃんと調べないで書いていてすみません。この程度のことは普通にネット検索すれば出そうなことです。要するに私の言いたいことは、これらは歴史的順番であり、われわれは歴史的順番で算数や数学を習ってきたのです。そしてその順番が自然であるわけです。この意味で「あえてうそを教える」ことはあるわけです。それは、社会であっても数学であっても、なんであってもあることかもしれません。子どもにサンタクロースを教えるようなものも同様なことかもしれません。

 同じように(ここからちょっと大学初年級の数学まで出てきます)、高校で「微分」を習い、まず「極限」というものを習うわけですが、これはあまり厳密ではありません。「xが0に近づく」と言っても、あまり厳密ではないわけです。私が現役の高校生であったころ、数列の極限を習い、「無限級数は、どこかに収束するか、正の無限大に発散するか、負の無限大に発散するか、振動するかのどれか」と習ったとき「どうしてそんなことが言えるの?それ以外にはないの?根拠は?」と思ったことを思い出します。でもそれは高校までの限界です。これが、大学に入った瞬間に厳密になり、ε-δ論法とか、ε-N論法とか、いろいろ習うわけです。ようやっとの思いで大学に入った学生は、これに出会った瞬間に大学数学が嫌になり、落ちこぼれが発生するわけですが、とにかく高校までに習ったことがくつがえされ、一気に厳密になるわけです。もっともこのε-δ論法はたしかに面倒くさく、そのうち(これは数学科に進んだ学生だけが習うものかもしれませんが)「集合と位相」みたいなものを習って、「位相」という概念を学んで「近い、遠い」の新たな発想を知ることになりますが(物理で習う「位相」とはまったく異なる概念ですのでご注意を)、とにかく「極限」がだいぶ厳密になります。これも高校までで習った微積がいんちきかというとそのようなことはなく、この順番で習うのがまともだと思います。これも歴史的順番です。つまり、ニュートンやライプニッツの時代の微分積分というものは、いまの高校数学・高校物理のような「直感的な」ものであり、いまの大学初年級で習う本格的な極限の定式化は、ずっとのちのコーシーの時代の産物だと思います。またもネット検索すればわかる程度のことを記憶で書いてすみません。とにかくこれも小学校算数の「引き算」の話と同じく、習う順番に意味があり、それは歴史的な順番だ、という例です。

 そこで、中高の数学の話になります。以下もあまり数学がお好きでないかたには頭の痛くなる話でしたらすみません。二次方程式の解の判別です。「判別式D」というのを習ったことを覚えておられますでしょうか。判別式が正ならば解は2つあり、判別式が0ならば解は1つであり(重解と言います)、判別式が負ならば解はないのです。これは極めて自然です。そして、複素数を習うとこの知識は「上書き」され、判別式が正のときは実数の解が2つ、判別式が0のときは実数の解が1つ(重解)、判別式が負のときは虚数解が2つとなります。これが自然な流れであり、歴史の順でもあるはずなのですが、これに逆らった教科書があります。もっとも検定教科書ではありません。具体的に名前を挙げると『体系数学』と言い、中高一貫の数学の「教科書スタイルの副教材(?)」であり、実質的には教科書です。私が教員であったころはこれを使っており、いまでも変わらないなら、この内容は以下の順番で習います。

 すなわち、「複素数」を習ってから「判別式」を習うのです。これなら最初から「うそをつかずにすむ」。この「教科書」は、日本各地の中高教員が執筆しています。(もっとも検定教科書もそうだと思いますが、検定教科書には私も大学時代にお世話になった大学の先生の名前などが執筆者として載っています。ただしそれは「名前を貸してある」だけの証拠に、ある大学院時代に集中講義でおなじみだった先生(執筆者のひとり)に、教員時代に、おかしな点(2次関数の定義域が実数全体ではなくその一部分になっているときは「2次関数」と呼んでいない点に気づいたとき。ちなみに同僚はこの「定義域に限定があるとき」のことを「定義域のあるとき」と言っていましたけれどね。なんだそれ。「実数全体」が定義域であるときは「定義域のないとき」とでも言いたいのか!と言いたくなりましたが、「できない」教師である私にはその発言権はないのでした。そんなの指摘しても嫌味を言われるだけだし。もうどれだけレヴェルが低いのか言い出すとキリがないのですが、とにかく彼らは教員として今でも成功しており、私は失敗者。どうにかならないのかねえ。)についてダイレクトメールをして質問したとき、返信があり、案の定そこまで深く考えていないというか、なにかクレームが来ないためでしょうというくらいの返信でした。執筆者と言っても名前を貸しているだけなのです。もっと決定的な証拠を挙げましょう。私が習った先生もたくさん執筆者でしたが、すべて「東京大学教授」と書かれていました。少なくとも東大の数学の先生はすべて「大学院の先生」であり、大学院の先生が学部も教えているというのが正しい現状でした。したがって「東京大学教授」と書いてはならず「東京大学大学院教授」と書かねばならない。これひとつとっても、大学の先生は執筆者になっているけれども実際には書いていない証拠です。べつに大学の先生の悪口ではないです。それくらい実際には中高の先生が書いているという証拠です。小学校算数の教科書でも同じで、かなりの「権威ある」名前が著者に混じっています。おそらく教科書会社が権威をつけるために大学の先生に名前を貸してくれるように頼んでいるだけ。長い脱線おしまい。)とにかく『体系数学』も日本各地の中高教員が執筆しています。教科書を執筆するくらいですから「できる」教員なのでしょうねえ。だから「うそをつきたくなかった」のか「できるところを見せたかった」のか知りませんけど、最初から「判別式が負のときは2つの虚数解をもつ」と言いたいばかりに先に複素数を教えます。この弊害はものすごいものがあります。なにしろ二次不等式を習う前には複素数を習っているのです。「不等式」というのは「大小」を扱うものです。実数のように「順序」の入った数しか扱えないのは明らかです。しかし、私が勤務していた三流の自称進学校では、これで不等式に虚数を書く生徒が後を絶たないのです。これは根本から誤解を招いているとしか言えない。生徒のレヴェルの低さばかりを言えないだろうと思います。誰だって小学校の最初に「引き算」を習う前にマイナスの数から習ったら混乱をきたすだろうと思います。それと同じことを『体系数学』はやっているのです。罪が重い。

 というわけで、あえてうそをつくことはあるわけです。私だって今ちょっとうそをつきましたよ。「順序のあるもの」は実数だけではないことは大学に入って数学を学ぶと明らかになることですが、お読みになるかたはそこまでの知識はないはずと思って上のような書きかたをしました。小学校では小さい数から大きい数は引けないと習うように、また高校数学の極限が厳密でないように、うそはつくべきです。歴史的に発見されてきた順序で習うべきです。こう言い切ってしまうと例外を出してくる人もいるかもしれませんが、少なくとも『体系数学』の「二次方程式の判別式を習う前に複素数を習う」という順序ははなはだよろしくないという話でした。それ以外にも「教育のおかしさ」は挙げだすとキリがないのですが、なぜか私は「教員失格」ですから。

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