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教会が公民館でよい理由

 もう8年くらい前のことになります。教員だった時代に、弦楽合奏の生徒を引率して、学校の近所の公民館で、お年寄りのクリスマス会で演奏していました。とてもたのしく、いいクリスマス会でした。しかし、なにかが足りない気がします。私は気がつきました。「イエスさまがいない」! クリスマスってキリストの誕生を祝うものなのに、見事にそれだけが抜け落ちたクリスマス会だったのです。

 その半年後くらいの初夏、教会で「あかし」をする機会がありました。礼拝後に1時間という時間をもらって、自分の話をする機会があったということです。いろいろなことをしゃべりましたが、ふと原稿にないことをしゃべりました。「教会の最大の魅力は神様に会えるところです。もしも教会が人と人とが会うだけの場所だったら、そこは教会ではなくて公民館ですよ」。この言葉は聞いておられたある牧師さんに気に入られて、のちに礼拝説教でも取り上げられました。ちょっとその教会は、あまりにも人と人とが会っているだけの感じのする教会である傾向があり、この言葉は多くの人に「ささった」みたいなのです。しかし、それから7年くらいたち、いろいろな経験をしました。かくいう私が、まるで教会へ「人に会いに行っている」感じなのです。しかし、この7年くらいで、「教会は人に会えるというそのことだけで価値がある」と思えるようになりました。

 人とのつながりの大切さを最も強く感じたのが、4年前くらいの、何回目かのダウンのときです。絶望して実家のふとんで一日中寝ている私は、とてもではないですが見えない神様だけには「依存」できませんでした。スマホを通じて、ひたすら友人に依存し続けました。たしかに「神とのつながり」は大切だけれども、同じくらい「人とのつながり」が大切だと痛感したのです。

 そして、現在です。2年近く前の、コロナの流行り始まりのころから長くダウンしている私は、ひたすら「人とのつながり」のなかで生きるモチベーションを保ってきました。去年の今ごろ、生きる意味を見失っていたころに私を救ってくれたのは、宗教と関係のない、人生観も合わないあるクラシック音楽マニアとのメールのやりとりでした。それから、「就労移行支援事業所」と言われる福祉の施設とつながって、週に2度、外出する機会を得て、また生きるモチベーションを与えられました。お金の問題ではありません。生きる意欲を失ってしまったら、いくらお金があっても生きられないものです。「たとえ人が全世界を手に入れても、自分の命を損なうなら、何の得があろうか」(新約聖書マタイによる福音書16章26節)。いかに人とのつながりが大切かを思い知らされました。そして、その「人とのつながり」を強力に与えてくれるものの最大のものが「教会」だったのです。

 教会は公民館でもよい。「人とのつながり」が得られるだけで充分に教会の存在意義はあります。宗教が与えてくれるものは「心のよりどころ」だけではなかったのです。「人とのつながり」だったのです。8年前の公民館でのクリスマス会も、みんなとともにイエスさまはいたではないか。神を大切にするのと同じくらい、隣人を大切にすることを説いている聖書の言葉(同22章34節以下)の意味をかみしめる日々です。

 (新年最初の記事でした。)

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