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「すべての人が救われる」のはあり得るか

10年以上前のことです。大学教授であった父が、私にある私的な文書を送ろうとしました。当時、私はパソコンを持っておらず、携帯電話のアドレスに添付ファイルができない時代でしたので、私は職場(中高の教員でしたのでその職員室)のメールアドレスに送ってもらうように頼みました。父は激しく怒りました。父の職場で、公用のメールアドレスを私用で使ってクビになった人がいたそうです。その日、何度も父は「ゼロにしろ!」と言いました。私用のメールが1本でもあったらクビになる可能性があるというのです。恐ろしくなった私は翌日、職場の送受信メールをすべて削除したのでした(ログは残っているだろうなと思いつつ…)。

ある私の知っている人は、いつも一時停止するのに、たまたましなかったところをお巡りさんに見つかって、罰金7,000円を払わされたそうです(今ならもっとするでしょう)。これも父に言わせれば「ゼロにしろ!ありとあらゆる一時停止を必ずすれば、絶対に罰金を払うことはないのだ!」ということになるでしょう。しかし、かくいう父および母も、付近の交差点で「ここはしょっちゅうパトカーが来て見張っているのだよな~」と言いながら、わざとらしく一時停止します。また、父や母はしばしば普通郵便で現金を送って来ていました。見つかったことはないからだそうです。私は普通郵便の事故には何度か遭っていますので、これは「ゼロではない」ことが分かっています。

SDGsと言われるものの目標をひとことで言いますと「ひとりも取りこぼさない」ということになると思います。しかし、そんなことが人間に可能でしょうか。たとえば「すべての人に健康と福祉を」という目標がありますが、私のように、「教員という安定した仕事に就いていたため十数年前にマンションのローンが組めてしまって、そのずっとのちに発達障害の診断がくだり、障害特性ゆえに仕事を失い、支払い能力を失った」「しかし、睡眠薬の服用のためにいびきが非常に大きく、家族と同じ部屋では眠れないがゆえに1Kというアパートに引っ越すことはできない」などの事情がある人が「健康と福祉」に至ることはできるのでしょうか。「ゼロにはできない」のではないでしょうか。

聖書を開くと、以下のような表現が頻出します。「もし、人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたをお赦しになる。しかし、もし人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない」(マタイによる福音書6章14節以下)「主は正しき者の道を知っておられる。悪しき者の道は滅びる」(詩編1編6節)。つまり、助かる人がいる一方で助からない人がいるのです。最後の晩餐での有名なイエスの言葉である「これは、多くの人のために流される、私の契約の血である」(マルコによる福音書14章24節)にしても「多くの人」と言っており、「すべての人」とはあえて言っていません。イエスというぶどうの木につながっていない枝は、投げ捨てられて火で焼かれるのです(ヨハネによる福音書15章1節以下)。やはり「ゼロにはできない」のではないかと思わされます。

「合理的配慮」とか「多様性」とかいう言葉もよく聞きます。たったいまは障害者週間です(毎年12月3日から9日まで)。もちろん「多様性」という言葉を多く聞くのは世の中に多様性がない証拠です。合理的配慮を法的な義務にせねばならないほど障害者への配慮はない世の中なのです。SDGsのかかげる目標は「ゼロにしましょう」というものです。一方で、上に見たように、人間には「ゼロにはできない」という性質があるのではないでしょうか。

もう1箇所だけ、とくにこのクリスマスシーズンによく読まれる聖書の言葉を引用させてください。「地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカによる福音書2章14節)。これは、御心に適わない人には平和がないかのようにも捉えられます。聖書のほうがずっと現実的で、SDGsのかかげる目標のほうがよほど浮世離れしているのではないでしょうか。

私のように「取り残されやすい人」は、取り残されまいと必死です。SDGsも聖書も「取り残される側」から捉えねばならないでしょう。「すべての人が救われる」というのは理想的にはすばらしいですけれども、現実にはあり得ない気がしています。

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