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「健全な常識人」と聖書

(繰り返し、似たような話を書いていてすみませんね。どうぞおゆるしを。)

 私の両親は健全な常識人です。私は昔から非常識なダメ息子でした。いまもそうです。親の字は立派で、私の字はきたない。幼少のころより、いつになったらあのような立派な字が書けるようになるのか、と、気が遠くなるような気持ちになったものです。いまでも私の両親は「健全な常識人」です。しかし、だんだんわかってきました。「聖書」というものは、「健全な常識」の反対を言おうとしている。だから、私の両親とは、ことごとく正反対の発想をしているのだ、ということです。

 数年前、「第2回ダウン」のころ、ある日、実家の両親の前で私は「ゆだねる」「ゆだねる」と言っていました。実家においては、私以外に両親しかおらず、私に「ゆだねましょう」と言ってくれる人はいなかったからです。ですから、自分で自分に言い聞かせるように「ゆだねる」「ゆだねる」と言っていたのですが、父は「そんなに何もかもゆだねてしまって、なーんにも努力をしなくなってしまったら、人間はダメなのだ!」と言い続けました。「ゆだねる」ってそういう意味ではないのに、と思いましたが、これ以上の説明はできませんでした。それでも私が「ゆだねる」と言い続けたら父は「『天は自ら助くる者を助く』という言葉は聖書の言葉じゃないのか?」と言ってきました。これは聖書の言葉ではありませんので、「違う」と言いましたが、ではこの言葉の出典は何なのか、その場では言えませんでした。あとから図書館で調べると、どうやら19世紀イギリスの「自助論」という本が出典のようでしたが、とにかく聖書の言葉でないことは確かです。意味から考えてもそうです。自分で自分が助けられたら、神様も隣人もいらないことになります。それでも父はこれを「聖書の言葉ではないのか?」と言いました。彼は健全な常識人です。

 母は、同じころ、「神様は、罰を与えるの?」と言ってきました。これで思い出す話があります。私が小学2年くらいのころ、私がテレビで「忍者ハットリくん」を見ていて浮かれていたとき、いきなりテレビの電源が切れたのです。リモコンなどというものはない時代です。私は頭から冷水を浴びせられたような気持ちになり、母に「誰がやったの?」と聞きました。母は「神様」と答えました。これが私の、「神様」との不幸な出会いでした。おそらくやったのは母なのでしょうが、このころより母の「神のイメージ」は変わっていないと考えられます(罰を与える存在)。

 聖書には「健全な常識」をくつがえすような言葉がたくさん書いてあります。「健全な常識」としては「先の者が先になり、後の者はもっと後になる」「強いときに強く、弱いときに弱い」「受けるよりは与えるほうが損である」「見ないで信じる者はおろかである」ということになると思いますが、聖書に書いてあるのは「後の者が先になる」(マルコ10章31節)「弱いときにこそ強い」(二コリント12章10節)「受けるよりは与えるほうが幸いである」(使徒20章35節)「見ないで信じる者は幸いである」(ヨハネ20章29節)ということです。「聖書のすべてが」とは言いませんが、聖書はしばしば、世の中の「健全な常識」を崩して、真理を言おうとします。「健全な常識人」である両親の洗脳から解かれつつある私には、聖書の言葉がリアルなものとして迫ってきます。世の中には、損得勘定でなく善意でまわっている世界があります。「こっちのほうが真理だったのだ!」

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