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心痛のあまり眠り込む?

 (本日は、ちょっと聖書マニアックな話をします。それでもよいというかたは、どうぞお読みください。)

 前から気になっていた、ルカによる福音書の、受難の場面におけるふしぎを2つ、挙げますね。

 ひとつは、以下のような場面です。口語訳で引用します。

 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約である。しかし、そこに、わたしを裏切る者が、わたしと一緒に食事に手を置いている。人の子は定められたとおりに、去って行く。しかし人の子を裏切るその人は、わざわいである」。弟子たちは、自分たちのうちのだれが、そんな事をしようとしているのだろうと、互に論じはじめた。それから、自分たちの中でだれがいちばん偉いだろうかと言って、争論が彼らの間に、起った。(新約聖書ルカによる福音書22章20節~24節)

 これがなぞなのは、果たして自分たちのうちの誰がイエスを裏切るかという極めてシリアスな場面で、なぜか「自分たちの中でだれがいちばん偉いか」という争論を始めてしまうところです。ここでその話をするかね…。

 さらに、もうひとつ、なぞの話があります。多くの人が「ゲツセマネ」と呼んでいるシーンですが、しかしルカは「ゲツセマネ」とは呼ばず、「オリブ山(オリーブ山)」とだけ呼んでいます。以下のシーンです。聖書協会共同訳で引用します。

 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに戻って御覧になると、彼らは心痛のあまり眠り込んでいた。(ルカによる福音書22章45節)

 「心痛のあまり眠り込む」という精神状態がよく理解できません。私の持っている注つきの聖書協会共同訳では「心痛」に「別訳「悲しみ」」と書いてあります。ならば「悲しみのあまり眠り込む」となり、やはりその心境は想像しかねます。悲しみが深いと、眠くなるのですか?なかなか、聖書って、こういう基本的な問いに答えてくれる人があまりいないので、こういうものは私の中だけの疑問となっています(いまnoteで公開していますが)。こういうものはたくさんあり、以下の記事でももっと有名な記事で紹介しています。



 ちょっと聖書マニアックな記事でしたね。同じようなことを思っておられるかたとこの気持ちを共有できたらと願いますが…。

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