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私も進歩しないが世界も進歩しない

 私が「進歩しない」人間であるということは、ときどき書いていると思います。何か月かかっても仕事に慣れない、上達しない、スピードアップしない。この症状を「いつでも初心者」と言うそうですが、この「いつでも初心者」という言いかたも難しい。「いつでも」ではないからです。たとえば(前にも出した例ですみません)、先日、私は食パンを買って来ましたが、賞味期限すれすれでした。そこで、注意されて、次からは、賞味期限を見て買うようになりました。これを、多くの人は「ひとつ進歩したね。一歩、前進だね。そうやって何事も一歩一歩だよ」とおっしゃるのですが、そうではありません。

 なぜなら、私にとって、「賞味期限を見て食品を買う」ということは、ずっと前からの課題であり、まして、今回、解決した課題でもないからです。進歩したように見えて、長い目で見ると、なにも進歩していない。これは、説明が極めて困難ですが、以下のように見ると、世界も進歩していないではないか、と言えると思います。

 昔に比べて、今の方が進歩しているようではないですか。四民平等になったし、民主主義になったし、福祉も充実してきている…。しかし、少し聖書をひもとけば、そこには、現代と同じ問題がたくさん書かれています。イエスの言葉で「持っている者はさらに与えられて豊かになるが、持っていない者は持っているものまで取り上げられるだろう」というのがあるのですが、これはまさに資本主義ですし、あと神殿の利権構造などを見ても、これは、世の中というものはなにも進歩していないではないか、と思わされます。イエスというすごい人が現れましたが、それによって社会は変わっていません。進歩したかのように見えて、なにも進歩していません。これによく似ています。私の「進歩しているようで、なにも進歩していないこと」。

 逆に言うと、世の中もちょっとは進歩しているのかもしれません。それを言ったら、私もちょっとは進歩しているのでありまして、自己認識が少し深まりました。しかし、私の本質は何も変わっていません。やはり、世の中が、イエスの時代から、なにも変わっていないのに似ています。いろいろ変わってきたようで、本質的に、なにも変わっていません。社会的に排除される病気や障害の人。「いくらなんでも聖書の時代と今は違うだろう」と言わないでくださいね。ほんとうになにも変わっていないのです。「多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」(新約聖書マルコによる福音書5:26)。いまだって医者のはしごをしたら同じような目にあいますよ。

 私は何が変わって何が変わっていないのか。世の中は、何が変わって何が変わっていないのか。よく見定める必要があると思います。

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