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「われわれクリスチャンは偉いのだ」

 ときどき書いている内容ですが、教会というところは、(私はなかなかいいところだと思っていますけれど、)けっこう閉鎖的なところで、どうも信者どうしが集まって、仲良しグループというか、内輪受けみたいなサークル活動をしているようなところがありますので、しばしば、外部から来る人に、不親切だったり、上から目線だったり、へんな特権意識があったり、というところのある世界なのです。おそらく、教会に入ったことのない人にとっては、教会って、ちょっと入りづらいところですよね?というか、私自身、20歳になるまで、宗教とは縁のない人生を歩んできまして、宗教というものには無自覚的なかなりの偏見がありましたので、その感覚はわかります。私が教会に来たきっかけは、オーケストラの仲間が教会で演奏するというので、チャペルコンサートのようなものを想像して気軽に「聴きにいくよ」と言っちゃったら、それはじつは「音楽礼拝」だった、というものです。最初から「礼拝」というわけわからない宗教の儀式だと知っていたら、行かなかったでしょう。そのころは地下鉄サリン事件から間もないころでしたし。とにかく教会というところは入りづらいのですが、そもそも入って行っても不親切だったりするのです。このことをよく考えていくと、どうも教会の人って「われわれクリスチャンは偉いのだ」と思っているふしがあるのではないか?と思えてきます。それが、あちこちの「不親切」や「上から目線」のもとになっているのではないか。非信者より教会員のほうが偉いし、役員をやっている人はさらに偉いし、牧師はすごく偉いという、そういう意識があるのではないか。(イエスは「いちばん偉くなりたい人は、みんなに仕える者となりなさい」と言った人なんですけど、みんなそれは口では言うんですけどね…。)

 ある教会での研修会をYouTubeで見たことがあるのですが、こういうことの発題者(「発題」という言葉も教会の業界用語ですかね?ここでは問題提起した人です)のお話は、つまり教会のさまざまな「あまりよいとは言えないおかしな伝統」についての話だったのですが、それを受けて、そこの教会の牧師さんが「ようするに『そこに愛はあるか』だ」とまとめた、ということがありました。そこに愛があれば、はじめての人や不慣れな人への無意識的な不親切や失礼な態度も、改まるのかもしれませんね。それにしても、「われわれクリスチャンは偉いのだ」という無意識的な特権意識がそうさせている、という面は、やはりあると思います。私も含めて!これは気をつけねばなりません。「主の祈り」を暗唱していることの何が偉いのだ!聖餐式にあずかれることの何が偉いのだ!私自身、非信者と間違われたときに、ベテランの信者さんから、露骨な上から目線の言葉を受けた経験があります。私が「2年近く通っても(教会員さんの顔と名前が)わからない」と言ったらそのベテランさんは「3、4年も通っていればわかりますよ。キリストの教えというものがね!」とふんぞり返って言うのでした。私はそのときは非信者と間違われただけですが、こういうことを非信者に言うクリスチャンって、どうですかね。一事が万事、その姿勢だから、教会っていうところは閉鎖的なんじゃないですかね。繰り返しますが、私は教会というところはなかなかいいところだと思いますよ。ただし、あまりにも閉鎖的な世界であることと、そのクリスチャンの無自覚的な特権意識は、よくないなあと思っています。どうも教会というところは根本的にイエスの精神に反しているのではないかと思うことがしばしばなのです。

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