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いろんな人がいる。すべて神様が造った

 両親の住む実家を離れ、この町に滞在して思うことはたくさんありますが、私のいま滞在する教会(その教会の一室で寝泊まりしています)の前提として、「いろんな人がいる」ということがあります。それを強く感じます。私は非常識な人間です。いろいろなところから排除されてきており、それが自分でも当たり前だと思ってきました。なぜなら、私は非常識な人間だからです。

 しかし、おそらく世の中には私よりもっと非常識な人間はたくさんいるはずなのであり、この教会のかたも、牧師先生夫妻をはじめ、いろいろな「変わった」人を見て来られているはずなのです。どうも、その「いろんな人がいる」ということを前提に、この場所はまわっている、という気持ちがすごくします。したがって、私も受け入れられているのです。

 「いろんな人がいる」それは、ちょっと聞いたら、「当たり前だよ」と言われる可能性のある言葉です。しかし、この場所では、このことは、「肌で実感」された言葉であり、私自身も肌で実感する言葉です。くだらない話をすれば、「電話ではそっけないが会って話すと話の長い人」がいる一方で「会って話すとそっけないが電話で話すと話の長い人」もいます。こういうのは、いい悪いではありません。とにかく、いろんな人がいるのです。

 私の知人で、「奥さん」「ご主人」という言葉の極端に嫌いな人がいました。その人も「いろんな人」のうちのひとりですが、たしかに、「奥様」「ご主人」という言葉には差別的なニュアンスを感じます。しかし、なんだかそういうことを気にしなくてもいい気がしてきました。なぜなら、いろんな人がいるからです。

 「みんなが見てるんだから、なんで見ないの?」と言われます。でも、見なくてもいいのです。なぜなら、いろんな人がいるからです。

 「いろんな人がいる」ということに目覚めるのは、思いやりと誠実で生きることだと感じます。世の中には驚くほど違う人がいます。たとえば、私はいま、ある教会の一室をお借りして暮らしています。かけがえのない日々です。きょうは、珍しく夕方の4時半まで寝ていました。きょうの食事は、夕食だけです。さっき食べました。たとえば、私は加齢臭がするので、なるべくなら換気をしたいです。しかし、じつはそれさえ気にしなくていいのではないだろうかと思えてきました。愛というのは、ゆるしです。人間とはにおうものですから、においもゆるされているのではないか。考えてみたら当たり前のことかもしれませんが、そうして、思いやりと誠実を身に受けて、ここでずうずうしく生きる。そうして私は、まごころを知るのです。

 いろんな人がいます。そして、すべての人は、神様が造ったのです。

 ごめんなさいね、ちゃんと伝わらない文章である可能性がありますね。でも、私がここへ来て感じている深い感動が、だれかに少しでも伝わったらありがたいという思いで書いています。
 

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