名前のついた学術用語

 今回の算数・数学の記事は、とくに予備知識はいりません。そもそも算数や数学の内容に踏み込んだものではない記事になるのです。「なぜ、日本人の名前のついた定理や公式はないのか?」と思っておられるかたに少しお答えできると思います。よろしければお読みくださいね。

 皆さんは、「名前のついた学術用語」をどれくらいご存知でしょうか。「メンデルの法則」「ニュートン力学」「シュレーディンガー方程式」…なるほど、たくさんありますね。これらはたった今の私のとっさの思いつきですから、もっとあるでしょう。「人の名前のついた何か」であれば、もっとたくさんご存知でしょう。「大隈講堂」「本田技研」「山崎パン」など、いろいろあります。でも、「日本人の名前のついた学術用語、とくに数学の用語」はあまりご存知ないのではないでしょうか。私は、大学と大学院での専門が数学でした。数学に関してであれば、日本人の名前のついた数学用語が存在することを、いくつか実例を挙げることができますので、ちょっとそれを紹介したいと思うわけです。

 まず「ここで言う日本人とはなにか」ということについてです。日本国籍を持っている人のことでしょうか。私がここで言いたいのはそういう意味ではなく「日本系の名前のついた学術用語」の話をしたいということです。外国人差別の話をしたいわけではありません。たとえばキムさん(金さん)というかたは私の周囲にも複数おられますが、これは韓国系のお名前であります。国籍は関係ありません。聖書にも「ギリシア語系の名前」というのが登場します。私には区別がつきませんが、「アンデレ」はそうらしい?(いま、生半可な知識で書きました。どうか信用なさいませんよう。)ですからここで話題にしたいのは「日本系の名前のついた数学用語」です。外国人差別をしているわけではありませんので、最初にお断りいたしました。

 数学科に入って最初に学ぶ「日本系の名前の数学用語」はおそらく「中山の補題」ではないかと思います。私は学部3年で学びました。しかし、それは代数の分野の話であり、私は幾何を選択しましたので、ちゃんと覚えていません。「中山の補題について説明せよ」と言われてもできません。ただし、「初めて学ぶ日本系の数学用語」であったため、ちょっとした衝撃として覚えているわけです。

 次は、大学院入学が決まって、最初のセミナーまでに読んで勉強するように指導教官の先生に言われていた、キャッソン=ブライラーの、ニールセン=サーストン理論の本でした。英語で書かれた本ですが、そのころまでに英語で書かれた数学書は複数、読んで来ましたので、「専門書はたいがい英語で書かれている」ことはよく知っていました。たまにフランス語で書いてあって困るのですが、それはともかく英語の本です。「キャッソン」と「ブライラー」は著者であり、「ニールセン」も「サーストン」も人名です。いずれも日本系の名前ではありませんよね。しかし、その本を読み進めるうち「Morita」と書いてあるところがありました。これは、同じ大学院にいた森田茂之先生を意味すると知って「あの森田先生か!」と思ってやはり軽い衝撃を受けたことを思い出します。そういうことはそのうち稀ではないことがわかってきましたが、最初の経験でしたから軽い衝撃を受けたのです。よく見れば、学部時代に読んだサーストンの英語の本も、参考文献に「Imayoshi-Taniguchi」を挙げていたので、驚くことではなかったのですが。今吉(いまよし)先生は、私の博士課程1年のときの研究集会での発表のとき司会をしてくださった先生です。「『だいたい』モジュライ空間の基本群が写像類群なのであり、その普遍被覆が『だいたい』タイヒミュラー空間なのです」と、にこやかに「おおざっぱな話」をする今吉先生はすてきでした。

 ここで森田先生に戻ります。「森田マンフォード類」という特性類があります。「マンフォード」も数学者の名前です。マンフォードも極めて有名な人です。たしかフィールズ賞を受賞していると思います。おそらくこれの発見者の2人が、森田先生とマンフォードさんなのでしょう。森田先生ご本人を除くほとんどの日本の研究者は「森田マンフォード類」と呼び、論文にもそう書きます。おそらく森田先生を尊敬しているからだと思います。森田先生ご本人だけ「MMM類」と書きます。これは、森田先生とマンフォードさんのほか、ミラーさんという人も関与しているらしく、3人ともMという名前なので、森田先生はこう書くわけです。自分の名前を堂々と書くのは自己主張が強すぎて「恥ずかしい」のでしょう。これは多くの日本の数学者がそうでした。日本に限りません。以下のロシア人のドゥージン先生という数学者も、やはり自分の名前は出さないのでした。「『おれがおれが』は恥ずかしい」と思うのは、どうやら世界的な傾向らしいです。

 ドゥージン先生の講義を聴くのは、修士課程1年のときであり、やはりまだそれほど数学界の常識に詳しくなかったころのことです。ドゥージン先生は英語でしゃべり、板書も英語でした。そこへしばしば「定理(D)」というものが出るのです。最初、意味がわからなかったのですが、だんだんそれは「ドゥージン先生の定理だ」ということがわかってきました。やはりご本人は「定理(ドゥージン)」とは書かず、「定理(D)」と書くのです。これは少しでも「謙遜」という意味なのです。謙遜は日本人の美学だけではなく、このような気持ちはいろいろな国の人が持っている傾向なのでしょう。個人差はあるでしょうけど…。のちに、このように自分の業績をなるべく控えめに書く人には数限りなく出会いました。その最初の例がロシア人のドゥージン先生だったのです。

 ドゥージン先生は、1回目の講義が終わったあと、日本語で「どうですか、私の英語は…」とおっしゃいました。私の指導教官の先生は「アメリカ人の英語よりもわかりやすかったです」と言いました。これはどういう意味かを書きますね。イギリス人やアメリカ人にとって英語は母国語です。私たち(おそらくこの記事をお読みのかたのうちほとんどのかただと思いますが、違ったらごめんなさい)は、母国語が日本語です。われわれも日本語であれば、細かいニュアンスまで含めてしゃべってしまいます。一方で、私の修士論文は英語で書かれています。しかし「○○はこれこれである」程度の英語でしか書いてありません。ロシア人の英語というのもそうであり、母国語でないため、そんなに難しい単語や微妙な言い回しなどは使いませんし、しゃべるテンポもゆっくりです。したがって「アメリカ人の英語よりもわかりやすい」ということが起きるのです。これは「韓国人の英語」でも「中国人の英語」でも同様です。(最もわかりやすいのは「日本人の英語」ですけどね。背後に日本語が透けて見えます。)最近、あるYouTubeの概要欄で、えらくやさしくてわかりやすい英語を書いている外国人を見ましたが、どうやらギリシア語が母国語の人のようでした。

 外国語について少し脱線をしますと、私のセミナーにもイギリス人の先輩と中国人の後輩がいました。2人とも、それほど日本語はできませんでした。中国人の後輩は、英語は問題なかったです。だいたい留学生を見ていて思ったのは「あえて日本語がよくわからないような顔をする」というのは作戦だ、ということでした。たとえばそのイギリス人の先輩は、指導教官の先生の前では絶対に英語しかしゃべらず「英語しかわかりません」という態度を貫いていましたが、じつはそこそこ日本語がわかっているのではないか、と思われました。ずっとのち、いまの私の教会で出会った中国出身のある女性は、日本語がペラペラです。しかし、あくまで中国語なまりの日本語を話されるので、どうしても「外国人」というふうに認識されてしまい「日本語がおじょうずですね」などと言われてしまう人でしたが、実際には「おじょうず」どころではないのです。そのかたに「留学生の作戦として、『あえて日本語がわからないかのようにふるまう』というのがありますよね?」と言ったら笑っておられましたので、そういうものでしょう。

 ロシア人数学者の話から脱線していきました。日本系の名前のついた数学用語の話に戻ります。以下は数学をやめて20年くらいがたつ私が記憶に頼って書くものですから、書き漏れがありますし、専門分野ジャストでないものばかりなので「その概念がなにを意味するか説明せよ」と言われても説明できないものばかりであることをおゆるしください。専門に近いものも含まれますが、それでも本当の専門でないと説明できないくらい、専門の世界は細かく分かれています。

 伊藤の公式。これは多くの人がご存知ではないでしょうか。確率微分方程式の分野になります。伊藤清さんの業績で、のちにこの伊藤の公式を経済学に応用した人(日本の人ではありません)は、ノーベル経済学賞を受賞しています。伊藤清さんは2008年に文化勲章を受章した直後に亡くなりましたが、受章のときに極めて頭脳明晰なコメントを出されました。伊藤先生は最後まで頭脳明晰だったのです。

 それからあとはもう名前の羅列になります。思いつく順であり、思い出す順です。佐藤超関数。小林擬距離。小平スペンサー理論。佐々木多様体。私が中身を説明できるものはこのなかにはないでしょう。とにかく、こうして日本系の名前のついた数学用語はたくさん存在するのです。おおげさな言いかたにはなりますが、私が修士論文に書いた定理は「腹ぺこの定理」であります(実名が出せないのがくやしいよ!)。

 とても「数学の記事」とは言えなくなってきました。最初からこういう記事になることはわかっていました。最後に余談として、ある、とても優秀ながら、ダジャレが大好きな国際的数学者の先生と、セミナーのあとに飲んだときのネタを披露します。

 「こっちミルナー」「ボットするな」「チャーンとしろ」
 「ものモースな」「デーンと座っているな」「どうのこうの言うな」

 これは「ミルナー」「ボット」「チャーン」「モース」「デーン」「河野」というのは、いずれも著名な数学者であり、もう少しバリエーションがありましたが、こんなところでしょう。そのダジャレ大好き国際的数学者の先生には「きみ大物になるよ」と確言されたものです。それは大きく外れたのですが、ある意味で私はいま「大物になりつつある」と言えます。ある仲間には「パパキリヤコプロスでやったらすごい」と言われました。パパキリヤコプロスも著名な数学者ですが、この名前ではダジャレは作れまい、という意味です。

 ほんとうに最後になります。高校のときの物理の先生がおっしゃっていたことです。通常「スミスの公式」と言われる公式があったそうです。(スミスは仮名です。)その先生の大学時代の先生で「加藤先生」という人がいたそうです。(加藤も仮名です。)どうもその加藤先生はスミスの公式の発見に寄与したらしいそうなのでした。そしてその加藤先生は授業で、そのスミスの公式を必ず「加藤スミスの式」と呼んだそうです。その高校の物理の先生は「加藤先生にレポートを書いてその式を使うときは『加藤スミスの式より』と書かざるを得なかった」と笑いながらおっしゃっていました。わざわざ自分の名前を入れるのみならず、自分の名前を先頭にする!さきほどの森田マンフォード類とのなんたる違いかと思いますが、どうやら物理の世界と数学の世界はかなり雰囲気が違うらしいこともなんとなくわかってきました。以上です。ここまでお読みくださりありがとうございました!

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?