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2つの円と1つの直線に接する円

 (本日の算数・数学の記事は、「もう算数も数学も忘れた。でも、おもしろそう」というかたにはお読みいただけるように書こうと思います。「接する」という言葉も忘れたというかたのために「接する」の説明からいたしますよ。よろしければお読みくださいね。)

 最初にお断りをします。この記事は、だいぶ前(15年くらい前)に、ある教員の仲間が、「どこかの中学の入試問題として出ていた」と言っていた問題を扱いますので「そもそも私が考えた問題ではない」ということをお断りいたしますね。私が考えた問題ではないです。ご存知の問題であるかたには申し訳ないです。しかし、この記事は「接する」という言葉の意味をお分かりいただけたらお読みになれる記事です。

 平面上に、円と直線があったとします。つぎの絵のような感じです。(いつも私の絵はフリーハンドですみませんね。)これらの円と直線は離れていますね。

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 つぎの絵を見てください。これも円と直線の絵ですが、円と直線が2点で交わっています。ここまで、よろしいでしょうか?

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 そのつぎに、以下の絵をご覧ください。これを「円と直線が接している」と言います。円と直線が「触っている」感じです。円上にもあって直線上にもある点は1つだけで、そこを「接点」と言ったりします。この「接する」とは「触っている」という意味だということがご理解いただけましたら、先へ進むことができます。

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 以下に、円と円が接している絵をかきました。これは、2つの円が離れているわけでもなく、かといって交わっているわけでもありません。触っているのです。これを「円と円が接している」と言います。

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 以下の絵も、円と円が接しています。離れているのでもなければ、交わってもいません。触っています。これを「接する」と言うわけです。直感的な説明でしたが、ご納得いただけましたか?

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 ここからが問題になります。以下のように、平面上に、2つの円と、直線があります。この2つの円と直線のすべてに接するような円は、いくつあるでしょうか?すべて挙げてください。

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 すぐに思いつかれる円は、おそらく以下の絵のような円ではないでしょうか。私は色弱でもありますので、ここで色を使えばわかりやすくなるのに、黒の上から黒のえんぴつで書いて申し訳ありません。「これ」と書いてある円です。これは、最初の2つの円と、直線とのすべてに接する円です。

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 ついで、思いつくのが、ひとにもよると思いますが、以下の円ではないでしょうか。大きな円ですね。

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 もうありませんか?

 いや、まだありますよ。よく考えてみてくださいね。

 それで、そのつぎに思いつくのが、以下の円ではないでしょうか。

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 そして、同じように思いつく円が、以下の円ではないでしょうか。

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 この4つですべてですかねえ?

 私の経験では、この問題を出してみた結果、多くの人が「この4つですべてだ」とおっしゃるのです。しかし、実際にはこの4つですべてではありません。まだあるのです。

 よく考えてみましょう。

 答えを書いてもいいですか。

 書きますよ。

 いいですか?答えを書きますよ。

 以下の絵のような円があります。とても大きな円です。円と直線は絵のだいぶ左で接します。

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 そして、以下の絵のような円もあります。これもとても大きく、円と直線はだいぶ右で接します。

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 そして、以下のような円もあります。

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 そして、以下のような円もあります。

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 これですべてです。つまり、8つありました!

 これは、あるときのある中学入試だったと聞きました。つまり、小学校算数の問題だったと言うのですね。しかし、これはちょっと問題として不具合があると私は思いました。「8つある」ということは言えても、「8つしかない」ことは言えていないからです。だったら「4つしかない」と言った人も正解に近くなるのでは?と思ってしまいます。

 たとえば、かつて私は、「チーズを4回切ったら、最大で15個に分かれる」という記事を書きました。それを聞いた人が「今度、ねんどでやってみます」と言ってくれました。ただし、ねんどでやってみせることの限界があります。「14個」が間違いであることは言えます。実際に15個に分かれることをやってみせればいいのですから。しかし「16個ではないの?」と言う人には説得力のない説明です。「切りかたがへただから15個にしかならないのだ」と主張する人には、「16個以上にはならない」ことの説明にはならないのです。

 新約聖書には「福音書(ふくいんしょ)」と言われる「イエス・キリストの伝記」が4つ、収録されています。イエスの母の名前は「マリア」です。多くの人がなんとなく「教会にマリアさまの像がある」というイメージはお持ちではないかと思います。じつは私の通うプロテスタント教会にはマリアさまの像はないのですが、それはともかく、イエスの母の名前はマリアと言います。マタイ、マルコ、ルカの3つの福音書は、イエスの母の名前を「マリア」と書いています。しかし、ヨハネによる福音書だけ、イエスの母の名前を書きません。ヨハネ福音書の著者は必ず「イエスの母」とだけ書くのであり、決してその名がマリアであったことを書きません。しかし、これをもって「ヨハネ福音書の著者はイエスの母の名前を知らなかったのだ」とは言えません。知っていても書かない可能性はあるからです。マタイ、マルコ、ルカの著者がイエスの母の名前がマリアだと知っていたのは確実です。書いているのですから。しかし、ヨハネの著者が知らなかったと断言することはできないのです。論理とは、そういうものです。

 というわけで、この円が8つだけであることは、小学生に説明させることはできないと思っております。これは、高校生くらいになって、円の方程式を学ぶと、ほんとうに「8つだけである」ことが式で示せます。円の方程式を知っている人への演習問題は、これらの2つの円と1つの直線に接する円は8つだけであることの証明です。これは可能です。

 さて、「接する」ということの奥の深さについて、お分かりいただけたのではないかと思っております。以下のようなことがあります。私が高校の数学の教師であったころ、円の方程式を教えていて、つぎのような定期テストの問題を出したことがあります。つぎの問題はほんらいはすべて式で書かれており、絵でかいてある問題ではないのですが、絵でかきますね。つぎの絵のように、点Aと円Cがあります。点Aを中心とし、Cに接する円の方程式を求めなさい、という問題でした。

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 この問題は、答えが2つあるのです。しかし、生徒さんの多くは、片方しか答えなかったのです。つまり、以下の絵と、

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 以下の絵です。

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 もちろん2つとも答えた人が正解であり、片方だけの生徒さんは減点となります。これでまた私の予想の平均点は無駄に下がり、また教務部長に叱られるのですが、とにかく、「接する」ということの奥の深さを物語る一例だと思います。

 本日は以上です。ありがとうございました。

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