見出し画像

宗教を信じる人が低く見られる理由

私は障害者福祉に頼っています。2つの象徴的な出来事を書きます。

1つは、就労移行支援事業所という障害者福祉でのことです。親切な伊藤さんと、そうでもない佐々木さんがいます。ある日、電話したら、佐々木さんが出て「伊藤は直帰しました」と言いました。ひんぱんに佐々木さんは「伊藤は直帰しました」と言います。しかし、あるとき、少し突っ込んで聞いたら「伊藤は打ち合わせ中です」と言いかたが変わりました。「打ち合わせ中」と「直帰」は両立しません。おのれ、いままでの「伊藤は直帰しました」もかなりの割合でウソだったな!

もう1つは、ある福祉での生活困窮の窓口に電話したときのことです。生活保護の制度について質問しようとしました。窓口の人は「いまから会議なので」と言って私の電話を切ろうとしました。すかさず私は「会議でない人をお願いします」と言いました。すると向こうは「全員会議なので」と言って電話を切りました。「全員会議」など、あり得るのか?これについては、のちにその福祉の理事長に直接、電話をし、あとで担当者からおわびのメールが来ましたけれども。

このように、「人に頼る人」はしばしば見下げられています。「私は助ける側。あなたは助けてもらっている分際」という無自覚的な認識があちこちで顔を出すのです。

20年くらい前に日銀の総裁であった故・速水優(はやみ・まさる)氏は、クリスチャンであったようで、日銀総裁を辞めたのち、熱心に伝道活動をしていたようです。それを揶揄した当時の週刊誌の記事の最後のせりふは「彼も結局は『神頼み』だったのか」でした。「神に頼る人」というのを見下げた言いかたが「神頼み」です。

SNSなどやっておりますと、私はまず大学と大学院の専門が数学であったこと、そして、東大理学部数学科と東大大学院数理科学研究科の博士課程までいたことで、かなり「尊敬」されてしまいます。単純な尊敬のされかたとしては、数学の苦手な高校生さんに尊敬されてしまうほか、他の分野の(私と違ってちゃんと博士号を持っていてどこかの教授をなさっているようなかたまで含めて)研究者にまで尊敬されてしまったりします。「数学」というのは「賢い」というイメージがあるのでしょうね。いっぽうで私がキリスト信者であるというのはあまり注目されません。先述の通り、宗教とは神頼み、仏頼みであり、人に頼る人というのは下に見られるからです。

私のかつての学校の同僚で、旧帝大の院で物理学の博士を得ているクリスチャンがいます。彼は「祈り」というものを非常に「難しく」とらえており、日曜は家族そろって教会に行き、娘や息子には毎週、礼拝説教の要旨を作文に書くことを課し、近所の神社の前は通らず、それでいて職場では上手に空気を読んで非信者とも仲良くやっているという人物でした。要するに私とは正反対のような人間ですが、彼がなぜ「祈り」というものをそんなに難しくとらえているのか、という理由はここまでの議論から明らかです。「神頼みは低く取られる」からです。宗教を信じる人は低く見られるのです。「やたら理屈っぽい牧師の説教が多い理由」も同様です。たとえば「数学」と比べて自分たちの言っていることが「レヴェルが低い」と思いたくないからです。

大学院で見て来た数学者の皆さんは、驚くほど謙虚な人たちばかりでした。マウントを取る必要がない場だと、人はこんなにも謙虚なのです。SNSのマウント合戦や、宗教の世界のマウント合戦を見るたび、大学院の数学の世界を思い出します。素直に認めようではないですか。われわれは神頼みしているのです。神に頼り、人に頼らないと生きていけないのです。宗教を信じるのに理屈は要りません。人に頼ればいいのです。見下げられても人に頼りましょう。私はこれからも、福祉にも人にも、神にも頼るつもりです。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?