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「医者よ、自分自身を治せ」

 イエス・キリストは、おもにカファルナウムというところで活動していました。以下は、故郷のナザレというところに戻ったときの話です。
 「イエスは言われた。「きっと、あなたがたは、『医者よ、自分自身を治せ』ということわざを引いて、『カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ』と言うにちがいない。(でも、できないもんね~)」」(新約聖書ルカによる福音書4章23節。新共同訳聖書からの引用。最後のカッコ内は私の勝手な補足)

 この「医者よ、自分自身を治せ」っていうことわざが「強烈」です。「お前、医者だろ。まず自分のことを治してみろよ」っていうことわざ(この聖書の箇所以外ではおそらく知られていないことわざです。イエス時代のことわざでしょう)でしょうけど、これを言われるとぐうの音も出ません。人って自分のことがいちばんできないからです。

 最近、あるかたが、私の、1年近く前の記事をお読みになってコメントをくださいました。「イエスは、ほんとうに十字架から降りられなかったのです!」(と私は書いていました)って、どういう意味ですか?「人類の罪を贖(あがな)うために、十字架から降りるわけにはいかなかった」という意味ですか?とおたずねになりました。私は「そういうつもりで書いたわけではないのです」とお答えすることしかできませんでした。しかし、私の言いたかったことをお伝えするのはかなり難しいことのようでした。私は「イエスは、降りたくても十字架から降りられなかったのです!」と、おうむがえしすることしかできず…。

 しかし、私が書いた「自分で自分は助けられない。イエスもその例にもれない」という言い方で、そのかたに私の言いたかったことは通じたようです。そのかたは「イエスさまは、自分の力を自分のために使ったことは一度もない。それは、使えるけどあえて使わなかったのだ、と思ってきましたが『使えなかったのかもしれない』と思いました。その究極の姿が十字架刑なのかも」とコメントなさいました。そうです!私はそういうことが言いたかったのです!

 昔から「紺屋の白ばかま」と言います。「お前、紺屋(染め物屋さん)だろ。まず自分のはかまを染めろよ!」というわけですが、こういうことって、イエスの時代も、昔の日本もあったわけです。

 もちろんこれは私の勝手な思い込みであり、みなさんにも「押し付ける」わけにはいきません。極端に言うと、これは「キリスト教」なのではなく「腹ぺこ教」かもしれません(でもそれを言ったら、私の書くことはすべて「腹ぺこ教」ですけど)。つまり、冒頭の「お前、医者だろ。まず自分自身を治してみろよ」というのと、「お前、救い主だろ。まず自分自身を救ってみろよ」というのはほぼ同じ構造の言葉で、みんな、自分のことがいちばんできないのです。

 (蛇足のような付記です。さっきこれは「キリスト教」というより「腹ぺこ教」、と申しましたが「キリスト教」の牧師でも、これとほぼ同じことを言っているYouTube動画があります。2020年10月4日の東八幡(ひがしやはた)キリスト教会の奥田知志牧師の説教です。ただしリンクもはりませんし、おすすめはしないでおきます。まずそれは52分もかかる長い話であり、また、奥田牧師と私は、言っていることは共通していてもキャラがまったく違いますし、しかもいま見ると、時事ネタでもあり古さを感じますし、ちょっと政治的でもあります。ですからおすすめはしませんが「同じようなことを思っている人はいる」というだけです。蛇足おしまいです。)

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