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捨てる神あれば拾う神あり

 『お寺の掲示板 諸法無我』という本の書評をお読みして、思わず涙しました。この本は、お寺によく貼ってある掲示板の言葉を集めた本のようです。「仏の顔は何度でも」という言葉を読んで涙したのです。世間では、仏の顔は三度までと言われています。しかし、本物の仏様は、「仏の顔は何度でも」なのです。イエスさまも、七の七十倍(すなわち無数に)ゆるせ、とおっしゃいました。「もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる」(新約聖書マタイによる福音書6章14節)。私たちは、ゆるしてもらえるのです!

 そこで改めて思うのは「捨てる神あれば拾う神あり」という言葉です。神様もいろいろいます。疫病神から貧乏神までいるわけです。私は人とのつながりを求めて、ときどき友達に電話をします。だいたい、10件くらい電話をすると、1件くらいつながり、話をすることができます。みなさん、お忙しいし、なかなか電話に出られないと思います。その他さまざまな事情がおありでしょう。私を嫌っている人も少なくないはずです。でも、電話に出てくれる人だけをありがたいと思い、メールの返信をくれる人はありがたいと思い、とにかく「数打つ」のです。この私のnoteの記事も「へたな鉄砲数打ちゃ当たる」式でとにかくたくさん書いています。「捨てる神あれば拾う神あり」です。拾ってくれる神様がいればいいのです。捨てる神は気にしないことにしましょう。なにかご事情があったのだ。嫌われたのかもしれないし。ですから、神様も多いに越したことはないですね。

 キリスト教は「一神教」だと言われます。その一神教の信者(クリスチャン)である私が「捨てる神あれば拾う神あり」と言っているのは、なかなかレアかもしれません。しかし、「ひとりの神様」に強烈にしがみつくのもいいですけれども、「たくさんの神にちょっとずつ助けてもらう」のも魅力的です。この生き方はなかなかしぶとくて、生き残るには有効な作戦かもしれません。福祉もたくさんのところにちょっとずつお世話になっています。あちこちの神社にも助けてもらい、あちこちの仏様にも助けてもらい、日曜のオンライン礼拝もいろいろな礼拝をYouTubeでテレビのような感覚で見て、それでどうにか信仰を保っています。もちろん、自分の教会に忠実に奉仕するまじめな信徒のかたあって私のようないんちき信者の存在が成立するのはわかっていますが、私は献金ができないほど困窮しているもの!捨てる神はいても、拾う神はいるはずと信じて、しつこくたずねよう。助けてもらえるなら、キリスト教でも、仏教でも、イスラム教でも、天理教でも、創価学会でも、いや無宗教でも、なんでもいいのです。助けてもらえるなら!

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