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ダブル博士の息子で俳優Sくんの思い出

 (私の書くことはすべてフィクションですよ。)

 私の学んだ数学のすべてを100とすると、高校までの数学はどれくらいの割合か?それは1にも満たないです。そのことを物語るエピソードを書きます。はじめて書きます。

 博士課程1年のとき、塾のアルバイトをしました。大学のバイト募集で見つけたバイトです。大学院から近かったですが、交通の便はやや悪いところにありました。行ってみると個人指導の塾で、1対1で教えるのでした。私の生徒さんはSくんという男子生徒でした。彼が高校生であったのか、高校中退であったのかは思い出せません。とにかくその塾で学んで大学に行かねばならない事情があったと思います。名前と顔はよく覚えています。

 彼はちょっと不良少年っぽいところがありました。しかし私にはなついてくれて、私の顔を見ると、いつも朗らかな笑みを見せてくれました。

 その塾では大学名を言ってはいけないことになっていました。どうやら大学名を言って、生徒さんを自分の大学の学園祭などに呼ぼうとするやからがいるらしくて、そういうルールでした。ですから私は自分が東大であることは言っていません。大学院生であることは言ったのかもしれません。なぜなら彼のお父さんは有名な学者であるらしく、博士を2つ持っているということだったからです。彼は自分のお父さんの名前を教えてくれました。その名前で検索したらすぐに出るというのです。「父は『博士を取るのは簡単だ~』と言っていますよ」と彼は言っていました。私はそのころ博士課程1年で、発達障害の二次障害たる精神障害もまだです。数学的アイデアも次々と出ており、まさに「博士号取る気まんまん」だったはずです…。

 彼は、その複雑な事情ゆえ、さまざまな仕事をしており、そのうちのひとつが「俳優」でした。私は彼が出ているコマーシャルを知っていました。彼に言われて見たのではなく、すでに見て知っていた有名なコマーシャルの人物がじつは彼であることを知ったのです。「あれはきみか!」と言って驚いたのを思い出します。このように、東京には、けっこうテレビに出ている人はいたものです。仲間の何人かを思い出します。大河ドラマや朝ドラに出ている仲間もいました。いまでも仲良しです。

 彼に数学を教えているときに思ったことがあるのです。「オレはいま、脳の1%も使っていないなあ」。これが、私が「高校までの数学は100分の1」だと言う根拠です。

 やがて、私はその精神障害のきっかけかもしれないと当時から今でも思う経験をしました。教会学校のキャンプの引率で、持ち物に「懐中電灯」と書いてあるのに懐中電灯を持って行かず、暗闇で足を踏み外し、じん帯を損傷する大けがをしたのです。どうもそれを機に25歳の大病に向かって行ったような気がしてなりません。

 (こう書くと、これを読んでいるに違いない実家の両親が「そら!あいつ(私)の25歳の病気の原因はじん帯の損傷だ!自分で認めている!われわれの責任ではない!」と言い出すのが目に見えるようなので書いておきます。私は「きっかけ」と書いただけで「原因」とは書いていません。原因はあくまであなたがた両親による私の幼少時の精神的虐待です。)

 それで私はその塾へも両手に松葉杖で必死に通いました。そのころまだ全面的に依存していた両親(とくに母)のアドバイスで、その塾への義理立てのために、バイト代よりはるかに高いタクシー代を払って寮まで帰っていました。そして、病が私をむしばんでいきました。食欲はなくなり、発作はひどくなり、かなりひどい状態になっていきました。ついにそのバイトを辞めるとき、つぎの先生へのSくんの引継ぎを書いたのを覚えています。「Sくんは順列や組み合わせなど、『場合の数』が苦手です」と書きながら、私の心は痛みました。それはオレの教え方がへただからではないのか…。しかし、このあと、数学者の夢が破れて、もろもろあって中高の教師になってわかったことがあるのです。少なくとも中高の教師というものは、生徒ができないのはすべて生徒自身の努力不足のせいであるとし、決して自分たちの教え方が悪いというふうには言わないこと…。

 まさかその病気は2年もかかる大病だとは思っていませんでしたから、とりあえず一時休止みたいな形で休んだのですが、それどころではない大病となり、かなりの年月がたって再びその塾を訪れたときにはその塾はもうなくなっていました。

 繰り返しになって恐縮ですが、私は夢のある大学院生でありましたので、時間もたくさんあり、そのころ、世界史を学びたいという気持ちもありました。私は高校時代、社会は日本史選択でした。そして、理系でしたから、それ以上の社会は学んでおらず、私には世界史の知識がごっそり抜けているのでした。それで、その塾で見つけた古い世界史のテキストをパクって(フィクションですよ)、持ち帰っていました。その世界史のテキストはいまでもどこかにあるかもしれません。その大病で失ったものははかりしれないのに、そんな世界史のテキストだけ失っていないなんて、なんだか皮肉ですが、そのテキストはどこかにあるはずです。

 いまごろどうしているだろう。特徴的な名前だったから、検索すれば出る可能性がありますけど、いいや…。

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