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体で実感した聖書の言葉たち

 きょうもいろいろありましたね。でも、朝、思っていたとおりのことを、書こうと思います。

 私はいま、自宅から遠い町の友人宅に居候しています。毎日のように、新しい出会い、新しい発見がありますが、きょうは、こちらへ来て、あらためて体で実感した聖書の言葉たちを、いくつか、挙げようと思います。

 (挙げられるものだけ挙げています。まだ滞在しますので、今後も出てくる可能性もありますが、今のタイミングで書いています。多くの人や出来事に触発されていますが、いちいち断ってないことをお断りしますね。自分ひとりでは思いつかないものです。)

 私は、こちらへ来て、ほんとうに貴重な体験をたくさんしています。シェアできるものは、このnoteに書いたり、ツイッターで書いたりしていますが、大切すぎて、シェアできないものも多いです。宝物のようなお話は、容易に人には言えないのです。障害特性で、思ったことをなんでも言ってしまう私のような空気の読めない人間でも、わかります。言ってはいけないこと。ひとには言ってはいけないこと。まして、こんな、インターネットで広めてはいけないこと。

 しかし、誰かと分かち合いたいのです。この喜び。この感動。

 そんな思いをして、わかった聖書の言葉があるのです。

 パウロの、天にあげられて見た事。

 「みんなとシェアしたい」という気持ちと、
 「でも大切すぎて人には言えない」という気持ちが混じると、ああいう何とも言えない言い方になるんだなっていうこと。

 私にとっては大きな発見です。またひとつ、聖書を体で読むことができました。

 つぎです。「信仰によって山が動く」という表現についてです。

 私が居候しているのは、友人宅ですが、その友人の彼と2人で住んでいるので(こうしてつい、「住んでいる」と言いたくなるのですが、住んでいると言ったら住民票もこっちにあるはずで、そんなわけはないので、正しくは「暮らしている」と言わなくてはならない)、ゴミの出る量がすごい。山のようにたまっていくので、私は気になり、彼にゴミの日を聞きました。

 ゴミの日の前日、遅く帰った彼に、翌日の朝のゴミ出しについて、質問しました。これだけでも、私は障害特性に逆らって、すごく気がきいたのですが、彼は、「一緒に行きましょう」と言いました。一緒にゴミ出しをして、そこで私がゴミの出し方を覚えるのです。

 翌朝、目が覚めてみると、彼はとっくに出勤している時間でした。びっくりしました。

 これはどういうことかと言いますと、その数日間、私は、早朝覚醒(睡眠障害の一種で、朝早く目が覚めすぎることです)が続いていて、あまりよろしくない状態でした。

 その日、私は、早朝覚醒をせず、しかも、彼の目覚ましでも起きず、眠っていたわけです。私は、いびきがひどいと妻に言われていますので、すごいいびきをかいて寝ていたことでしょう。それを見た彼が、私を起こさず、黙ってゴミを出して出勤していたのです。

 私は目が覚めて、時計を見てびっくりし、ゴミのあったところを見ました。

 彼の信仰によって、(ゴミの)山が動いたのを見ました!

 つぎの話です。
 「主人はいつ帰ってくるかわからない」(そんな言葉だったかな)というのも、この、一緒に暮らす生活で、実感している言葉です。彼は、仕事から帰るのが、果たして何時なのか、まったくわからないのです。「主人の帰りは遅いと思」っていると、主人は思いがけないときに帰ってきて、私はしばかれるのです。もちろんそんなやましいことをしているわけではないのですが、ようするに、旦那さんがいつ帰ってくるのかわからない世の多くの主婦のかたが、ごく日常的に感じている感覚を、ようやく味わっているに過ぎないのです。帰ってきたら、なるべく心をこめて「おかえりなさい」と言うようにしていますが、これも、多くの主婦のかたの気持ちがわかったというだけの話です。(しかし、私の「おかえりなさい」というときのねぎらいの気持ちが、彼に伝わっていたことを知ったときは、ほんとうにうれしかったです。)

 つぎのが最後になります。「不正にまみれた富で友だちを作りなさい」とイエスが言う場面が聖書にはあります。よく「不正な管理人のたとえ」と言われるところで、どう読んでもわけわからない、ちんぷんかんぷんの箇所の一節です。

 そもそも私がこちらに来ているのは、私が長く休職していて、ずっと家に夫がいる状態が耐えきれなくなった妻のためです。

 どこかにしばらく行くように言われて、私は困りました。実家くらいしか思いつかないのですが、じつは私は老いた両親との関係が良好とは言えないのです。

 そこで、別の町に住む彼が、自分のところに来ないか、と、彼のほうから言ってくれたのです。かなりちゅうちょしましたが、結果的に、こちらに来てよかったです。

 父は、私が帰省すると負担だとはっきり言いました。それは負担でしょうが、私にはどうしても、実の息子が困窮しているときの実の親の言うべきせりふには思えませんでした。

 でも、とにかく私が帰省すると両親は負担なので、私が彼の家に行くことになったとき、父に金を送らせました。そのお金で、交通費と食費などをまかなったのです。

 つまり、私は、父から巻き上げた「不正にまみれた富」で、こちらへ来て「友だち」を作りまくっている!

 はからずも、イエスさまの言うとおりにしていたのです。

 以上の4つを挙げました。ほかにもたくさんの発見がありますが、それこそこうしてインターネットでシェアできない大切なものばかりです。

 以上です。すみません、聖書をあまりお読みになったことのないかたには、意味がわからなかったかもしれません。しかし、なにかは伝わると思って、書かせていただきました。

 聖書って、無駄に書いてあるわけではないのだなあ、と、体で実感する日々です。

 ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

 
 

 

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