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聖書の"毒"教え「互いに愛し合いなさい」

久しぶりに思いつくままに書きます。聖書にも「"毒"教え」があります。それは決して「彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした」(ヨシュア6:21)とかではありません。(聖書は昔のテレビであって、こういう場面は「痛快!」と思って聞かれてきたところ。)

最も毒のある恐ろしい教えは、うるわしい言葉で書かれています。(イエスは言われた。)「互いに愛し合いなさい」(新約聖書ヨハネによる福音書13:34)。これが恐ろしい教えであることは、私のなかでだんだん明らかになっていきました。

イエスは言うのです。「互いに愛し合いなさい。自分たちでどうにかしなさい。ぼくに頼るなよ。頼らないことが自立だよ」。こんなことをイエスさまが言うでしょうか!もともとこれは田川建三さんが「いかにもイエスが言わなそう」だと「新約聖書 訳と註 ヨハネ福音書」に書いていたことですが、その意味がようやくわかりつつあるわけです。

2年前に、ある地方の福祉に頼りました。障害者就業・生活支援センターというところでした。そこの相談員に言われました。「まだこちらに引っ越してくるかどうかも決まっておられないのですね。それでは私たちとしてもどうしようもないので、ご夫婦でよくお話し合いになり、ご自分でお決めくださいね」。よく言われて閉口する言葉が「ご家族でよくご相談になってください」です。上述のイエスの(ものと言われる)言葉と同様の構造です。「互いに相談しなさい。自分たちでどうにかしなさい。われわれに頼るなよ」。「どうぞご家族でよくご相談になってください」という言葉は、支援を断る言葉なのです。それは自分のことは自分で決めるのが当然ですが、それで相談を断られたのでは、福祉の相談の意味がありません。

もう10年くらい前になるでしょうか。弁護士の伊藤真さんの講演を聴きました。自民党の憲法改正草案についてですが「家族は互いに助け合わなくてはならない」という文言が加わることについて伊藤さんは「これは福祉を削って防衛費にあてるつもりだろう」と言っていました。「互いに助け合え」という、一見、まともに見える教えが、非常に「冷たい」ものであることを思い知った最初の機会がこれである気がします。

いつぞやの「自助、共助、公助」という言葉もそうです。とくに「共助」。「互いに助け合え」というのは、「自分たちでどうにかしろ。連帯責任だ」という意味になります。(「自助」というのは「自分のことは自分でどうにかしろ、自己責任だ」ですけどね。)

世の中がどんどん「うるわしい」言葉ばかりになっていっています。私の住む土地では、地下鉄で「お年寄りや体の不自由な人に席をゆずりましょう」とさかんに言っています。(皆さんゆずらないのでしょうな。)テレビをつければかわいい動物の動画ばかり。「多様性」という言葉をさかんに聞くのも、世間に多様性がいかにないかを示しています。表面的な言葉のうるわしさとはうらはらに、世間はすさんでいっていると感じます。

究極の「聖書の”毒"教え」が「互いに愛し合いなさい」だと感じます。これは聖書の有名な言葉です。しかし、これは恐ろしい教えです。先述の田川建三さんは、本来のヨハネ福音書の著者と違う人が付け足した言葉だと判断しています。確かにこれはイエスさまが言いそうにない!イエスはただ、目の見えない人を癒やし、十二年出血の止まらない人を癒やし、重い皮膚病の人を癒やし、五千人を五個のパンで満腹させ、死人をよみがえらせていたのだ。「互いに愛し合いなさい」なんていう、人を助ける気のない福祉みたいな冷たいことを言うわけがないのだ!

私の最近のテーマ「好きなものは好きと言う」「嫌いなものは嫌いと言う」ということで言えば、この聖書の言葉は大っ嫌い!嫌なものは嫌なのだ。もう一度、書きます。「互いに愛し合いなさい。自分たちでどうにかしなさい。ぼくに頼るなよ。人に頼らないことが自立だよ」。こんなことをイエスが言うわけがない!!!

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