見出し画像

「人生終わりだ」

 最近、あるかたのnoteをお読みしました。それがどの記事であったのかわからなくなり、リンクをはることもできなくなり、字句通りの引用もできないということを申し訳なく思います。すみません。性教育についてご自分の考えをまとめて書かれた記事だったのですが、以下のように書いてあるところが、非常に印象に残っております(繰り返しになりますが字句通りの引用でなく申し訳ございません。司書の勉強をしたことのある私には、これは引用としてはインチキであることはわかっているのですが…。申し訳ございません)。

 すなわち、望まない妊娠をすることについて、たとえば高校生のうちに妊娠してしまうことについて「人生終わりだ」みたいに教えてはいけない。

 ということですが、これは本当だ!と思いました。これはどういうことかと言いますと、たしかに望まない妊娠をすることはよくないが、実際には堕胎するという方法があるし、「人生終わりだ」という迫りかたをしてはいけない、という主張でした。

 じつは、それで思い出したことがあります。ツイッターをやっていた時代(2020年のほぼまる一年)に、よく、「望まない妊娠をしたら大変だぞ」という漫画のツイートが流れてきたのです。あまり関係がないので、ちゃんと見ていませんでしたが、たしかに(そのツイートもあいまいな記憶で引用することになってしまうことをおゆるしください)、平凡で普通の高校生が、いきなり大変な人生になってしまうぞ、ということを言っている漫画であり、最初のほうは、高校生の女子が、妊娠検査薬(というのですね。細長いもの)を見て、「どうしよう…」という感じで青ざめるというものです。しかし、いま考えると、これは明らかに「おどし」でした。その漫画の制作をした人の「望まない妊娠をしたら大変だぞ」ということを伝えたい気持ちはわかりますが、その漫画は「おどし」になっており、「望まない妊娠をしたら人生終わりだ」と言っているかのように見えました。取返しのつかない失敗かのようです。

 私自身のことになりますが、私は、整理整頓ができず、電気のつけっ放しとか、忘れ物・なくし物の絶えない子どもでした。それは、発達障害の特性であったので、なおらないものであったということであり、たったいまも私は、ひどく散らかった、きたない部屋からこれを書いています(※私の書くことはすべてフィクションですからね。信用しすぎないでくださいね)。しかし、私は、「整理整頓ができなかったら人生終わりだ」というふうに教育を受けており、「だらしがない人間は、人生終わりだ」「忘れ物・なくし物をしたら、人生終わりだ」というふうに受けとめて、幼少期を過ごしました。結果、非常に精神的に不安定な人間になってしまって、25歳の博士課程1年のときに、二次障害(二次災害みたいなものです)である精神障害をやってしまい、数学の研究者の道を絶たれて、現在、こんなに困窮しております。ですからそういう「人生終わりだ」という教育によって人生を狂わされた人間のひとりなので、「人生終わりだ」という教育が、いかにおそろしいか、よくわかっております。たとえば、私は、「何十ぺん言われてもわからない」という特徴があります。それどころか、何年やっても「慣れる」ということがなく、何か月、同じ作業をやっても、「慣れてスピードアップする」ということがありません。最初は、「初心者だから遅いのだろうな」と大目に見ていた周囲の人間も、いくら時間が経過しても、私がちっともスピードアップしない(しかもスピードアップを心がけているようにも見えないらしい)ことで、堪忍袋の緒がぶち切れて、ついに爆発するのです。とにかく「何十ぺん言われてもわからないのな!」と何十ぺんも言われました。これは、つい最近、知った言葉ですが、「いつでも初心者」という症状だそうです。自分のなかで、何年も言葉にならない思いを、言葉にしてもらったという気持ちがしました。そうです。私のその症状はまさに「いつでも初心者」というべきです。言葉になって何かが解決したわけではありませんが、私のその症状に、名前があることを知って「私だけではないらしい」ということがわかったというだけでも収穫です。

 整理整頓ができなくても人生終わりではありません。電気のつけっ放しがよいとは言えませんが、人生終わりではありません。忘れ物・なくし物も、「取返しのつかない失敗」ではありません。忘れたら取りに帰るとか、となりの人に借りるとか、いろいろな方法があるはずで、なくし物も、買えばいいのです。もちろん、「なくしたら買えばいい」という教育は、あまりいいとは言えません。もっとものを大切にしろと言いたくなる大人の気持ちはわかります。さっきの例でいえば、「妊娠したらおろせばよい」と言っている教育が、あまりいい教育ではないということに似ているのかもしれません。しかし、「人生終わりだ」という教育はよくない。

 ある高校を知っています。私の書くことはフィクションですから、フィクションとしてお読みいただきたいです。その高校では、ある年、センター試験の成績を見た直後、電車に身を投げて自殺する生徒が出ました。その高校は、世間ではうまくごまかしたみたいですけど、それは明らかに「勉強ができなかったら人生終わりだ」と教え込みすぎたのです。実際に、その学校では、生徒にそのように教えることを「迫る」という言いかたをしていました(くどいですけどこの話はフィクションですよ!)。「いい大学に受からなかったら、人生終わりだと、迫る」。そういう教育を日常的にしている高校だったのです。しかし、ちょっと考えていただきたいのですが、なぜいい大学へ受かりたいかと言ったら、いい大学へ行って、いい就職をして、安定したしあわせな人生を送るためでしょう?死んでしまったら、意味がないでしょう?明らかにその高校は、「迫りすぎた」のです。たしかに勉強はできたほうがいいのかもしれませんが「できなかったら人生終わりだ」という教育は、はなはだよくありません。

 私が学生時代に出会ったある牧師です。その人は、日曜だけ牧師をしていて、週日は塾講師をしていました。一度だけ、教会の若い仲間のために、塾のような授業をする彼の姿を見ましたが、どうも牧師をやっているときよりもよほどいきいきとやっており、この人は牧師よりも塾講師のほうが向いているな、と感じたものですが、あるとき、なかば冗談で、以下のようなことを言っていました。すなわち、開成に受からなかったからって、人生終わりではないですよとは言えないですからねえ、と。東京の厳しさをかいま見ました。いい学校に受からなかったら、人生終わりだというふうに児童・生徒に(保護者にも)教え込んでいるのでしょう。それが塾の現実なのでしょう。それはどれほどの悪影響があるか、上に見て来た通りです。(自殺者が出るくらいですから!)

 「人生終わりだ」という教育。おそろしいです。私もその被害者のひとりでありますし、もともとはその性教育にかんするnoteの記事を書いた人の言葉で印象に残ったものです。引用ができなくて申し訳ございません。このへんまでです。お読みくださりありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?