「言い切り」と洗脳
(きのう、私の記事「ライフプランナー」にコメントをくださって、「言い切り」の話を書いてくださったかたがおいでになります。そのかたのコメントにインスパイアされて、ふだん私が「言い切り」について思っていることを改めて書きたくなりました。ありがとうございます。)
ある牧師さんが言っていました。「うちの教会でも、もっと『言い切り』をしたら、信者は増えるのだろうね」。これは、否定的な意味です。つまり、「これはこうです!」と言い切ったら、聞いている人は「洗脳」されて、信者が増えるわけです。しかし、こういう「言い切り」がいいことかどうかはわかりません。
私が「よい洗脳」と呼んでいるものがあります。「よいほうに信じさせてもらえるなら、それは洗脳でも構わない」というような意味です。たとえば「あなたは神様から愛されています!」でもいいですし「いまこの世で報われていないほど、天国で報われますよ!」でもいいのですが(いや、後者はなんだかこの世の苦しみから目をそむけさせるだけで、あまり「いい」とは言えないか?)、とにかく「いいこと」を信じさせてもらえるなら、「言い切り」による「洗脳」はアリだと私は思うのです。普通、「いいほうに信じさせてもらえる」のを「洗脳」とは言いませんけどね…。悪いほうに信じ込ませられるのを普通は「洗脳」と言います。「これこれのことをしないと地獄に落ちますよ!」みたいなのが典型です。いずれも、「心が弱っている」ときに効果を発揮します。「よいほうに信じさせてもらえる」言い切りも、心が弱っているときに効果を発揮します。しかし、「悪いほうに信じてしまう(いわゆる普通の意味での)洗脳」である言い切りも、心が弱っているときに、効き目が出てしまいます。つまり、自分で何も決められないほど心が弱っているときに、「ひとから言い切ってもらえる」というのが、効果絶大になってしまうのです。いい洗脳も、悪い洗脳も。
じつは、ほんもののキリスト教会でも、つねに「言い切り」をしているのかと言ったら、それは違います。つぎのような説教が一般的です。「二千年前、ガリラヤのカナというところで水がぶどう酒になったと信じられています」。これは「水はぶどう酒になりました!」という「言い切り」調ではないことはおわかりいただけますでしょうか。あなた宗教家だろ、もっと「言い切って」みろよ、と言いたくなるのですが、これが教会の現実です。「言い切る」のは、本物の宗教家でも怖い。
私に謝るときに「ごめんと言わざるを得ない」という言い方をした人がいます。「ごめんと言わざるを得ない」と「ごめん」そのものは、天と地ほども違うと私は思っています。その人には「ごめん!」と謝るだけの覚悟がないということがよくわかります。
イエスは「言い切って」います。「求めたら与えられるかもしれないし与えられないかもしれないしわからない」とは言わず、「求めなさい。そうすれば与えられる」と言い切っています。
最後に、明るい例を出して終わりますね。晴佐久昌英(はれさく・まさひで)神父という人の本のなかに「宣言」という言葉が出てきます(また記憶による引用で申し訳ございません。あちこちに出てきます)。晴佐久神父の言う「宣言」はまさに「言い切り」の意味で、これは「良心的な」言い切りです。晴佐久神父の「宣言」で、たくさんの人が救われているそうです。ただし、こういうのも一歩間違えると、悪徳宗教になってしまうので、恐ろしいですけど…。ああ、明るい話題で締めようと思ったのに、そうはならなかった…。ごめんなさいね。
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