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マーラーと旧約聖書

 最初にお断りしますね。私は、この記事で、音楽の話がしたいです。宗教の話がしたいのではありません。しかし、もし聖書を少しでもお読みのかたであれば、より楽しくお読みいただける記事になるのではないかと思いつつ、書き始めます。

 私は学生オーケストラをやっていましたが、マーラーに目覚めたのは、遅かったです。周囲の仲間は皆、「マーラーはいい」「マーラーやりたい」などと言っていました。私は、「マーラーのよさなんか、わかってたまるか!」と思っていました。そのころ、スヴェトラーノフ指揮のN響によるマーラーの7番を生で聴きましたが、目覚めていないころでしたので、まったく良さはわかりませんでした(惜しいことをしたものです)。また、ある市民オーケストラで、1番をやる機会がありましたが、これも、どこがいい曲なのだろう、と思いながら、練習も本番も、吹いていました。ほんとうに、マーラーのよさなど、わかっていなかったのです。

 そんなある日のことです。そのころ、もうオーケストラはやっていませんでした。ある、ちょっと人生に疲れた日、何気なく買った、クーベリック指揮バイエルン放送交響楽団のマーラー9番のCDを、帰宅して、聴き、

 「この曲のすべてに共感できる!」

 と思ってしまったのです。

 数学の専門用語を使うことをおゆるしいただければ、「第9番」という「主定理」が証明されてしまいましたので、あとのマーラーの作品は、「系」のようなものですから、いもづる式に、他のマーラーの曲のよさもわかってしまいました。9番も、ひとたびよさがわかると、クーベリックの演奏でなくてもよくなりました。(いま、いちばん好きなマーラー9番の演奏は、アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団だと思います。)

 私は、旧約聖書は、いままでに、17回、読んでいます。新共同訳(4回)のみならず、口語訳(3回)、新改訳、それから聖書協会共同訳も2回、新改訳2017も読みました。文語訳も読んでいます。旧約聖書続編は6回、新約聖書は31回、読んでいます。私が、マーラーに目覚めるのと、聖書に目覚めるのと、どちらが先か、わかりませんが、聖書のほうが後であったように思います。しかし、聖書、とくに旧約聖書の魅力と、マーラーの魅力は、共通するものがあると思っています。いくつか、共通点を挙げたいと思います。

・長い

 マーラーの交響曲は、長いです。さきほどの9番でも、1時間半ちかくかかります。最も長いのが3番ですが、6番も7番も8番も長いです。また、旧約聖書も非常に長い。とくに、新約聖書が、「一話読み切り」の話が多いのにたいし、旧約聖書は、ひとつひとつの話が長いのです。アムノンとタマルの話から、アブサロムが死ぬまでの一連の話だって、なんと長いことでしょうか。そもそも創世記から列王記下までが、ひとつの長い話です。

・ときに支離滅裂

 旧約聖書にも、美しい話はあります。ルツ記などは美しくて短い1楽章と言えましょう。ヨナ書も、短くて、しかも気が利いた小品です。しかし、たいがいは、殺伐としていたり、意味不明であったり、支離滅裂であったりします。申命記はだいぶ意味不明であり、さらに、イザヤ書でさえも、ところどころに美しい言葉が出てきますが、全体としては意味不明です。マーラーの交響曲も、しばしば、支離滅裂です。7番を例に挙げましょう。マーラーの交響曲第7番は、5つの楽章からなり、最初の3つの楽章は、暗い上に長く、ときに意味不明に思えます。そして、第4楽章で、少し穏やかな感じになります。そして、最終楽章で、急に、極端に明るく勇ましくなります。まさに支離滅裂であると言えますが、この7番という曲も、真の傑作だと思います。

・しかし、これは、人生そのものではないか、と思う

 私たちの人生も、支離滅裂ではないでしょうか。もちろん、美しい瞬間もあります。しかし、とてもきたない思いがあることもあり、下品なこともあり、深い話から浅い話まであり、トータルとしては、意味不明で、支離滅裂なのが、私たちの人生ではないでしょうか。先述の、アムノンとタマルの話も、異母姉妹を好きになって、仮病を使っておびきよせて、強姦して、あげくに追い出すという、人間のきたなさが表れた話ですが、旧約聖書は、そういう人間のきたない話も、淡々と描いていきます。高貴な思いも人間の思いですが、きたない思いも人間の思いです。マーラーの交響曲の割り切れなさは、調にも表れており、たとえば、5番は、嬰ハ短調で始まり、ニ長調で終わります。9番も、ニ長調で始まり、変ニ長調で終わります。最初に苦悩していたものと、別なものが解決しているのです。私たちのこの意味不明の人生も、そうではないでしょうか。

・そして、無駄なことだらけに思えるが、じつは無駄はひとつもないのかもしれない

 これも、私たちの人生と同じです。旧約聖書も、無駄だらけに思えます。こんな話は、入っていなくてよいのではないか、と思われる話も、たくさん入っています。マーラーの交響曲も、たとえば私の知っているレコード屋さんの店長さんは、マーラーの5番の3楽章や5楽章は、無駄だらけで、「そのよさがわかる」という人は、信用ならない、とまで言い切っていました。しかし、ほんとうにそうでしょうか。私たちの人生も、無駄だらけに思えます。でも、じつは、そこに大いなる意思がはたらいていて、ほんとうは、無駄なことはひとつもないのではないか・・・と、ちょっと思ったりもします。マーラーの交響曲も、私にはそのような作品に思えます。最近、ある友人が、坂本龍一のピアノ曲を評して言った言葉を借ります。「感動を押し付けてこない」。マーラーの作品も、感動を押し付けてきません。マーラーは、「感動させよう」という気が、ないかのようです。ちなみに、旧約聖書も、読む人を感動させようとする意志は感じられません。でも、ときどき、とても感動してしまうあたりも、両者に共通します。

 日本の旧約聖書学者で、山我哲雄先生というかたがいます。少しだけ、個人的な面識のある先生なので「先生」づけでお呼びすることをおゆるしください。おそらく、日本で最も旧約聖書がおできになるのではないかと思うほどの博覧強記な先生ですが、山我先生は、また、ものすごいマーラーおたくでもあられます。山我先生は、旧約聖書を、全文、ヘブライ語で暗唱できるのではないかと言われていますが、また、マーラーの交響曲も、すべて、口三味線で歌えるのではないか、とも言われています。日本での旧約の第一人者である山我哲雄先生が、大のマーラーおたくであることは、私には偶然には思えないので、ここでそのエピソードを紹介しました。

 ちょっと、ウラ道の話をします。とっくに思われていると思いますが、マーラーはユダヤ人で、旧約聖書はユダヤ教の聖典なのです。私は、なるべくこの事実には触れたくなかったのですが、やはり、「触れたくない」ということだけでも、触れる必要があると思いました。私のなかで、マーラーと宗教は、関係ありません。しかし、この点にこだわる人がいるのもたしかで、あるとき、ある日本の音楽評論家が、指揮者のガリー・ベルティーニ(故人。マーラーが得意で、ユダヤ人だった)に、いっしょうけんめい、ベルティーニとユダヤ教とマーラーを結び付けようというインタビューをし、ベルティーニは、いっしょうけんめい、話題をかわしているという、ちぐはぐなインタビューをテレビで見た気がします。おそらく、ベルティーニも、自分がユダヤ人であるからマーラーが得意なのだ、とは思われたくなかったでしょうね。それにしても、バーンスタインといい、インバルといい、マーラーが得意な指揮者で、ユダヤ人は多いのですが。

 最後に、ほんとうに私が好きなマーラーの作品をいくつか挙げ、好きな演奏も挙げて、終わりたいと思います。

 交響曲第2番「復活」
 私の友人の言葉で、マーラーの交響曲は、声楽が入らないものが、ホンモノではないか、というものがあります。なんとなく納得しますが、もちろん声楽入りでもすばらしいものはありますので、2番や3番、8番などもすばらしいです。2番「復活」は、強烈な曲ですが、ほんとうにマーラーはこの曲はハッピーエンドにしたかったのでしょう。演奏は、ストコフスキー指揮のロンドン交響楽団(BMGの録音ではありません!1963年7月30日のプロムスのライヴです!)ほかが、目鼻のはっきりした明解な演奏で、私は好きです。

 交響曲第6番「悲劇的」
 これは、それほどよく聴く曲ではありません。80分聴いてきて、最後に、死んでしまうからです。でも、たいへんな名曲だと思います。ベルティーニの演奏がよいと思います。

 交響曲第7番
 この曲の魅力については、上に語りました。演奏論ですが、これは、圧倒的に、アバド指揮ルツェルン祝祭管弦楽団による演奏がすばらしいです。晩年のアバドは振り切れており、この曲にたいするアプローチも、非常に明解です。大野和士指揮都響の演奏もすばらしいです。また、この曲には、クレンペラーのおそるべき演奏がありますが、アバドとはまたまったく違う切り口で、この曲の魅力を伝えており、クレンペラーの演奏も、説得力があります。

 交響曲第9番
 演奏については、上で述べたとおり、アバドの晩年の演奏がよいのですが、ほかにも、すぐれた演奏は多く、ベルティーニもすばらしいです。バーンスタインは、ちょっと強烈すぎるというか、大げさというか、そこまでやるかという演奏ですが、たしかにバーンスタインはマーラーを世界的に流行らせた指揮者なので、その功績は、低く見積もられるべきではないと思います。この曲を、チャイコフスキーの「悲愴」になぞらえる人がいますが、ちょっと違うと思います。「悲愴」は、最後、まったく希望はなく、絶望のうちに終わりますが、マーラーの9番は、最後、絶望と希望のはざまで苦しみ、やや、希望のほうがまさっているかな?という終わり方をします。支離滅裂にして美しい曲です。

 交響曲第10番(補筆完成版)
 この曲は、マーラーは完成させていませんが、ぜひ、補筆完成版で聴くべき名曲です。私もいろいろな補筆完成版で聴きましたが、多くの人と同じ意見で、クック版が、もっともすぐれた補筆完成版であると思います。ただ、例外がひとつあります。ヨエル・ガムゾウ版です。ガムゾウは、現役の指揮者で、そのマーラー10番の自分で補筆した演奏は、YouTubeにあります。じつは、これを書きながら、いま、それを聴いています。日本のオーケストラも、ガムゾウを指揮者として招いて、ガムゾウ版のマーラー10番をやればよいのに、と前からずっと思っています。この10番も、ほんとうに人生のような、旧約聖書のような、美しい曲です。

 最後の最後に、蛇足みたいですが、本稿を書く直接のきっかけを書きます。きのう、百田直樹『クラシック天才たちの到達点』を読み始めたのです。もらった本でしたが、すぐに、この人は私とはかなり感性が異なることがわかりました。そして、以下の文章に出会いました。
「しかし個人的な感想で申し訳ありませんが、マーラーの曲には構成力の欠如が見られるように思います。それと統一感のなさを感じます。まるで異なる美意識で作られた曲を継ぎ合わせたように聴こえるのです。乱暴な喩えをすると、一枚のキャンバスに水墨画と油絵と水彩画が描かれた絵のように見えるのです。部分的には美しい音楽がいくつもあるのですが、全体として聴くと、すごくアンバランスな曲に聴こえるのです」。(p.70)
 ここまで、私の記事にお付き合いくださったかたなら、お分かりいただけると思います。この人は、マーラーの曲の特徴をよくつかんでいますが、じつは、この人が欠点だと思っているその支離滅裂さこそが、マーラーの魅力そのもの、人生そのものなのです。この人には、おそらく、旧約聖書の魅力もわかるまい。

 長くなってすみませんでした。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。

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