コンタクトレンズと自分の中にある引き出し

今日、人生初のコンタクトレンズを入れた。日常生活に困らないからという理由だけで、ここ10年間ほど、明らかに落ちている視力を自覚しながらも頑なに裸眼で過ごしてきたが、我慢も限界にきた。眼鏡にトライしていた時期もあるのだが、すぐに辞めてしまっていた。元々、汗っかきなうえに、鼻の頭にすぐ汗をかく体質なので、眼鏡がどうにも邪魔で耐えきれなかった。


コンタクトを試すまでこんなに時間がかかったもう一つの理由は、異物を眼の中に入れることに対する恐怖心だった。だがこちらも周りの人によく言われた通り、全く心配なかった。まだ試着して2時間ほどしか経っていないが、外すのを忘れる気持ちがよく分かる程に自然な感覚になっている。少し考えれば分かることだが、いちいち怖がらないと入れられない物であれば、これだけ大勢の人が使用する訳がない。それは情報として頭の中では分かっていたのだが、今回実際に自分の身体で体感してよく分かった。あらゆる物事がそうだが、この二つには大きな差がある。普段から出来る限り、後者の意味で”分かった”ことだけを喋ったり、書いたり、何かしらの発信をする際に心がけているが、それは自分や他者を含めた世界に対する誠実さだと思っている。


こうして手に入れた”新たな視力”だが、よく見える感動、というよりは懐かしい感覚の方が近い。記憶が確かに残っているが、10歳前後の時はこれくらい見えていたのだ。一瞬にして蘇る10歳前後の記憶と感覚と、使い続けて少しずつつ摩耗してきた40歳手前の現実の自分。そこを往還運動出来る面白さ。きっと生まれてからずっと眼が良い人には味わえない感覚だろう。自分の中の引き出しが増えた感じがする。何かが出来なくなること、機能が衰えること、病気になること、それらは全て引き出しが増えることに繋がる、という仮説を立ててみる。歳をとるのも悪くない、と思える。いや、元々悪いなんてこれっぽっちも思ってないけど。


とにもかくにも、コンタクトレンズは続けられそうだ。



#エッセイ #雑感 #店主 #バーテンダー #成熟すること

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