江戸時代、200年も戦争がなかったのは、腰に刀があったからだと思う

「平和はいいが、何か物足りないんだろうなあ。(中略)そう、生きている実感だよ!」

「進撃の巨人」のマーレ治安当局、グロスの言葉だ。

治安がいいに越したことはない。治安の悪さは弱肉強食の残酷な社会を生み出す。

一方で、平和は退屈を呼び、退屈は余ったエネルギーをマグマのように蓄積させる。

<平和が生む、ワルへのエネルギー>

①安土桃山時代〜江戸初期にかけ、「傾奇者」という人種が流行した。
年代で言うと1596年〜1643年にかけて。
②戦後日本で、ヤクザの抗争が横行した。

以上は事実なわけだが、ここに解釈を入れてゆく。
基本的には、北九州の成人式で湧いてくる新成人や、暴走族もこれに近いと考えている。
見た目が中二病で、行動は乱暴だ。白い目で見られて当然である。が、矛盾する事実がある。
・ただ派手に暴れるだけでなく「仲間意識」「義理人情」といった美学を持ち出してくる
・迷惑がられていただけではなく、傾奇者は親しまれて歌舞伎ののルーツとなり、ヤクザの抗争は「仁侠モノ」として映画のジャンルの一角を占めるまでになっている。

自分たちの少し上の世代が、大義のもと、命をかけてシノギを削ってきた。それを見ながら、その戦いが次の世の中を作って行くのを見てきた。しかし、その時代は終わった。(※秀吉の惣無事令が1585年/大坂夏の陣が1515年)

そのエネルギーのやり場のなさが、そういった存在を生んだのではないかと思う。

実際のところ、ほとんどの時代で人類は戦争をやめることができていない。
人間の中には破壊性、暴力性が常にある。ローマ帝国の最盛期のような平和な時代においては、例えばパンとサーカスのような催しがその吐口となった。

「祭り」を失った人や集団は鬱となりゆく。木村敏の有名な人間の時間感覚論である。
その祭りとは文化祭や体育祭であり、受験や就活や婚活であり、昇進や開業や上場であり、結婚や出産であり、誕生日会やホストの昇格祭や地域のストリートピアノだったりする。
ロジェ・カイヨワは戦争を、「祭りの要素すべてを高度に持ったもの」と指摘したりした。
退屈と非日常についてはハイデガーも何やら考察していた気がするが、ちゃんと呼んでいないのと難しい言葉が並んでいたのでよくわからない。

日常を壊すものが存在することによって、日常を定義できる。
非日常の最たるものが、破壊であったり死だったりする。

<江戸時代の平和>
以上のグダグダは、とにかく人間は常に、非日常へ、不安定へ、破壊へのエネルギーを溜めているという話である。
が、江戸時代はなぜそれが爆発したり、恒常化しなかったのか。

自分はそれが武士の腰にあった刀にあると思っている(武家の場合女性にも「懐剣」が持たされていた)。

刀とは非日常であり、破壊のエネルギーだ。
剣を腰に帯びることそのものは、世界のあらゆる場所で、あらゆる時代に存在した。
しかしこれは「仲間や自己を守るために戦え」の剣である。

一方、武士には脇差があった。これには鍔がなく、短い。
この剣は、自分自身に向けられたものである。「己の命にの価値がこれまでだと思った時、あるいは恥だと思った時は自らの判断でその命を断て」の剣である。女性の懐剣もその意味があった。

常に物騒なものを、己を緊張させるものが、腰にあるわけである。
己の生きる意味を常に喉元に突きつけられ、武士は生きていた。

このピリッと感が、武士を厨二的なエネルギーへと向かわせなかったのではないか。

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