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顔のあざと共に過ごすこと

少し前、書店に行った時こんな本を見つけた。

『ふたり、この夜と息をして』
よくある少年少女のジュブナイル、高校生の青春恋愛物語のようなお話だ。学生特有の気恥ずかしさや傷心の成長ものはもうあまり読まなくなったのでそういったコーナーを見ることもなくなっていたのだが。

その時はいろいろな感情がごった煮に混在していて、その時ちょうど手元にあった自分の小説を近くにいた小説をいろいろ物色する男子高校生に渡しそうになるのを「誰か止めてくれ……!」と思いながらもその少年に渡そう渡そうとしてしまう自分を食い止めるのに必死で気づいたらいつもはいかないコーナーに来ていたのがきっかけだ。
せっかくだからどんな本があるのかいつもは見ないので見てみたらこの本があった。

主人公の男の子は顔にあざがあってそれを化粧で隠しながらも生きる少年と何か秘密を持った少女のお話。

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「顔のあざ」という文字を見てしまうとつい立ち止まってしまう。
かくいう私もそんな顔のあざを持って生きている人の1人だからだ。
あざを持って生きるということがどういうことが生じてくるのかよくわかる。

私はそれよりも気になる悩み事があったからかそこまで気にすることはなかったのだけど、そのあざより気になる悩みがなければこのあざに深く悩んでいたのではないのだろうか、と思えるような気もする。

気にすることなくいることが楽しく過ごせるからそうしているものの、「気にしていない」と真っ向に言い切れることはこの先どんな時があってもないのだと思っている。

強がりで気にしていないというわけでもないものの、気にしていないと言い切れることはできない。きっと向き合うと泣きそうになっちゃうからだ。

だから、そっと寄り添ってくれるような顔のあざを取り扱った作品はつい読んでしまう。そこと向き合うのはその作品を読んでる時だけにしよう、と思えるから。物語を読んでるとそんなに気にしていないと言いつつもやはり顔のあざを持つことでしか生まれない出来事に出会ってきたことに「悲しく思ってもいいんだよな」と少しだけ生まれ持ったものに恨むことができる。

特にこれといって特別なものと思ってきたわけでもないが、自分の顔のあざで体験した心の機微はどんなものがあるのか、なんとなく人に伝えてみようと思う。おそらく、少し見える世界が違う。

私が1番共感する物語は漫画の『青に触れる』である。太田母斑を持つ少女と相貌失認症の先生のお話。

初めに紹介した小説では主人公はみんなにバレないよう隠して生きていた。メイクをして隠すというのは、その場における大多数である当たり前に擬態したいというものである。でも正直これって自傷のように思えた。

実際自分もメイクで隠せるならとあざを隠す専用のコンシーラーなんかを試したこともある。普段から化粧をしないゆえ下手だからなのかはわからないが、明らかにあざの部分は厚化粧になるのである。皮膚の上にあつくぬりかぶされた肌色の何かの層が違和が大きくボコっととびでる。だから余計に変に思えてしまうし、そこまでしたところであざがない人のようにうまく見せることはまぁできない。あざがそこにあるようなことはきっとバレてしまう。だから、前述の小説だったり漫画『明日、私は誰かのカノジョ』なんかのメイクでわからないようになんてのは私からすると少し非現実的なわけである。

大多数が持ってる当たり前に擬態しようとしたところで、私にとって生まれ持った皮膚というのはたまたま一面の肌色じゃなかっただけだ。一面が肌色であるというのが当たり前なわけではない。みんなにとって持ってきた肌と同じように私だってそんな風に持って生まれてきたわけだ。
それをわざわざ仮装するなんて、まるで私が悪いみたいじゃないか。一重二重の違いと変わらない、顔にあざがあるかないかはそんな程度の生まれ持った違いだ。

だからといって自分が強いわけでもなく漫画『青に触れる』は気にしていないようで気にしている強がる主人公の心情がいたく伝わる。

この顔のあざを持っていることで、左利きの人が「左手なんだ」なんて言われる回数ほどに飽きるほどに「それどうしたの?」なんて山ほど聞かれてきた。「事故にあったの?大丈夫?ケガ?お大事にね」「ハロウィンのメイクでもしてるのかと思った」初対面の人から向けられるあざの印象は様々だ。これの何に嫌になるのかというと毎回毎回「そのほくろどうしたの?」なんて聞かれるようなものだと思ってもらえるとありがたい。
ただ、自分がもし顔にあざを持っている人と出会う側であればそう思うのも避けられないものだな、むしろそう思う方が自然なんだと思っているくらいだから純粋な疑問に対し忌み嫌うなんてことはできない。

ちょっと嫌だなってなったときは
歳をとるとシミができてしまうからそれが嫌だ。みたいな話が出る時だ。私は生まれ持ってそのシミと変わらないようなものを持って生きてるわけだから。人が嫌だと望まないものを持ってしまってるんだ、人が抵抗しようとするものを抵抗できる隙もなく与えられてるんだ。なんて思うと悲しくなる。
写真をプロに撮影してもらうとなった時、自分でメイクはしていたにも関わらず、執拗にあざの部分だけひたすらに長いことメイクで隠そうとされたこともやけに傷ついた。やっぱりいらないものなんだ、って。そんなに隠さないといけないものなんだろうか、って。まるで顔にあるほくろは全部完璧に隠さないといけないようにされる気持ちだった。「そんなに隠さないといけないものなの?」って。出来上がった写真は見事にあざが消えていた。自分の顔にあざがない写真はその時初めて見た気がする。
そうやっては、卒業アルバムの写真にあざの部分を指で隠し、あざがなかったらどんな顔なんだろうなんて思っていた時を思い返しては、完成品がきてしまったと嬉しいような嬉しくないようなつまらないものになってしまった自分のようなものを感じていた。

身体なら誰しもがどこかに持っているようなあざが顔に来ただけのことなのに。
「女の子なのに悲しいね」
女の子だどうだは関係ないよ。男の子だってそんな強く生きれないよ。女の子だから顔はダメって、まるで女の子は顔が命かのような。

あざのことや整形のことを執拗に調べるのは中学生で終わって悟りの道へ向かってしまったのだけど。やっぱり気にしてないと言い切れるところまではいけていないのがずっと自分だ。

自分の写真を載せることはできない。
それは顔を見せるということを一枚自分の意思で挟まなければいけないからだ。勝手に見えてるものとは違う。

リアルとネットでの出会いでは、自然と晒されているのと一つ「見せる」という工程が1つ加わる違いがある。だからネットの人に顔を見せるとする工程を踏むのは躊躇う。
これは今のマスク社会にも言えることで、中高生は似たような生きづらさを抱えもつのではないのだろうか。マスクを外して顔を見せるという工程を自分の意思をもって行わないといけない。

ネットからの出会いから会うとなると無意識的に意図を持って作られた’私’のイメージに沿わない要素を見せていくことに憂懼する。
ネットでしか作られない’私’がある。
それが崩れることが憂懼につながるのだろうけど、以前会って見た時「イメージしてたのとそんな変わりなかった。」って言われて嬉しかった。


ネットからの出会いは会うとなるとリアルよりも過程を一つ自分の意思を持って行う工程を挟まなければいけない。だからリアルよりネットは身構えてしまう。隠しているつもりはないのに、顔にあざがあるというのを明かすという人よりひとつ噛まなければいけないものがでてくる。だから人より会うハードルや労力が負荷が大きい。恐れてしまう自分がまだまだいる。
言い切れることができないように、怖く思うのはしょうがないのだと思う。
怖くなってしまうものはしょうがないから、自分のペースで新しい出会いに踏み込んで遅くゆるく遅くゆるく私の生まれ持ったものを堂々と持ち運べるようになっていきたい。隠してしまってるなんて思わず思ってしまうような猜疑心がなく。
煩わしさを遅くゆるくマイペースで軽くしてみたいと思った。

もう少し気楽に人との出会いを楽しみたいだけだ、


マスク社会に息苦しさを感じる中高生にも出会いの灯がもっと気楽におとずれますように。
そんな息苦しさを救ってくれる物語がまたひとつ、またひとつとこの世に生み出されることを願って、私もそんな物語を担える人になれることを願って。




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