M-1オズワルド、笑いと語用論

漫才とは

漫才とコント

コントconte は、仏語語源の「短い物語の寸劇」といった意味があり、一般的には舞台装置や衣装、照明、音楽などの演出効果を巧く使用したものが見られる。
漫才は、基本マイク一本と身一つで行うものとなる。コントを取り入れた漫才であっても、コントは登場時からキャラクターを演じているのに対し、漫才は登場時はコンビ本人たちの人格で始まる。
漫才とコントの違いはこの
1)別人格で始まるかどうか
2)演出効果の有無
で判断されると考えられる。

また、ここにおいて上記2点の判断により「漫才といえる」ものであっても「コントっぽい」といって「らしさ」が表出することは大いに有り得る。その「らしさ」に対し否定を行うことは難しく、行えないものなのではないだろうか。


萬歳、万才、漫才

萬歳は、才蔵(現在のボケ)が叩く鼓の音に合わせ太夫(現在のツッコミ)が扇などを用いながら歌う。歌舞伎のパロディー(ものまね)や、謎掛け、数え歌を行なっていた。

萬歳

万才は、胡弓、鼓、三味線等を用いる「萬歳」の型を残しつつ「喋り」の要素も加わるようになる。

砂川捨丸・中村春代(1923-1971)

漫才は、羽織袴姿で音曲を中心にした「万才」から喋りの要素を強くし、えんび服姿で日常生活をネタにした現在よく見られる「しゃべくり漫才」へ転換する。背広を着て自然体の会話のやりとりをし、三味線や扇は持たない。「漫才」の漫は当時流行していた「漫談」からとられたとされている。

エンタツ・アチャコ(1933)

このように歌や踊りが入るものであった万歳がしゃべくりだけになることは大きな改革になるものであったように「型」というものは変遷しつつ受け入れられていく。

「漫才であるかどうか」は「しゃべくりをしているかどうか」ではなく、一本のマイクの前に立って掛け合いをしていれば、歌や踊りや楽器演奏、ものまねが取り入れられていても歴史的にみても問題ないことになる。

1940年、フランスのデザイナー、レイモンド・ローウィは「新しいものの誘惑と未知のものに対する怖れ」との臨界点を「MAYA段階」と名付ける。MAYAは、Most Advanced Yet Acceptable(先進的ではあるがぎりぎり受け入れられる)の略。

見慣れない「型」から外れたものには受け入れづらい反発(「漫才ではない」)は生まれるものであり、またその新しさに惹きつけられ受け入れられるものもでてくるものであることがわかる。
「漫才であるかどうか」の「漫才」の決まった型は変容し受け入れられていくので、「漫才であるかどうか」で判断するのは難しく、M-1等の漫才の大会を観賞する際には「惹きつけられる(おもしろい)かどうか」といった見方が良いのだろう。この惹きつけられるかどうかが馴染みのあるものによったり、先進性によったりと、票が割れるところのように思える。

漫才とは何かについて触れたので、次に語用論を踏まえたオチ、ツッコミ、ボケとは何かについてみていく。

笑いの意味論

オチ

ラスキン『ユーモアの意味的メガニズム』(1985)では、「医者の奥さん」のジョークを見本とし、発話における3つ(発話行為、発話内行為、発話媒介行為)を用いて「オチ」を探る。

発話行為 とは
「これ私に似合うかしら」と言うこと自体
発話内行為 とは
「これ私に似合うかしら」と聞き手に問いかける
発話媒介行為 とは
もしよければ買ってもらいたいという「意向」
のことである。

発話には、発話内行為(聞き手にある働きかけを行うこと)と意向が機能しており、意向の不一致と転移が起こること、対立をなす上位項(正常)から下位項(異常)へ転移することが「落ち」であるとする。
また、梅原猛『笑いの構造』では、異なった意味または価値領域に属する2つのもののコントラストにより起こる価値低下の現象と述べられている。グレマスの『構造的意味論』(1988)においても、「よくない」という語が、「体調がよくない」という意味と「性的によくない」という読みができ、2つの異なる読みの対立について述べられている。

このように、ジョークは、同一の話題において、上位項と下位項を対立させ、上位から下位へと意図的に落とす技法であり、前提と現実や前提と前提の間で発生するズレ、グライスの協調の原則に基づく4つの公理(質の公理、量の公理、関係の公理、様態の公理)に反するものがジョークとなるとする。漫才では、ツッコミが上位項、ボケが下位項を。落語はひとりでオチを仕組んで物語る話術である。

グライスの会話における「協調の原則」とは主に以下の4つである。
①質の公理 根拠のある事実の事柄を述べること
②量の公理 過不足なく情報を与えること
③関係の公理 関係ある事柄を伝えること
④様態の公理 明確に順序立てて話すこと
この4つの公理の逆用行為が笑い(ジョーク)を生む仕組みとなる。

ツッコミ、ボケ

漫才を語用論を用いて研究した金水「ボケとツッコミ-語用論における漫才の会話の分析-」 (1992)では、Grice(1975)の「協調の原則」を踏み外した「逸脱」がボケであり、それを元に戻す「修復」がツッコミとなると説く。

普通の会話は協調の原理に従って進行していくわけでありますけれども、これを、わざと、 外すのが、ボケであると。会話の原則を何らかの形で外してしまう、これがボケ である。ところが、ボケてしまうと、つまり会話の原則をふみはずして、協調の原則が破られてしまうと、会話がそれで成り立たなくなる。そこで、その会話をもとの進路に戻す役目がツッコミである

金水「ボケとツッコミ-語用論における漫才の会話の分析-」
(1992)

金水 (1992)がボケを「逸脱」、ツッコミ「修復」と述べるのに対し、
木村 (2003)はボケを「ズレ表現」、ツッコミを「補強表現」とし、(「おかしみを生む言語表現とその理解--漫才を資料として」)
安部 (2004)は、ボケを (ズレ=「異なる二つの概念の対比」を持つ)「おかしみの図を完成させる表現」、ツッコミを「おかしみを効果的に伝達する表現」とする。(「笑いとことば―漫才における「フリ」のレトリック―」 『文体論研究』)

関 (2002)はおかしみが「既成概念と獲得概念のズレ」から生まれるとしている。(「おかしみの生成における言語操作の構造」『早稲田日本語研究』)
このように、一般的会話規則(のようなもの)からズレているものがボケとなり、それを軌道に戻す役目をするのがツッコミだと考えるのが主流だと思われる。ズレを戻す、ズレを補強する、ズレを効果的に伝える、大まかにはこのようなものがボケとツッコミの役割となる。

そのズレを検知するための会話の規則を以下のグライス(1975)の「協調の原理」を使用したのが金水(1992)である。このカテゴリーはカントの四つの形式をもとに作られている。

a.量の格率 :
  i(その時点での目的に)必要なだけ十分な情報を与えること。
  ii.必要以上の情報を与えないこと。
b.質の確率 :
  i.偽と信ずることは言わないこと。
  ii.十分な証拠のないことは言わないこと。
c.関係の格率 :関係のあることを言うこと。
d.様態の格率 :
  i.分かりにくい表現を避けること。
  ii.曖味さを避けること。
  iii.不必要に余計なことを言わず,簡潔な言い方をすること。
  iv. 順序良く,整然と提示すること。

グライス『論理と会話』
(1989)

オズワルド

今回はこの金水を参考に「M-1グランプリ2021」におけるオズワルドのネタを見つつ、私が思うオズワルド漫才の惹きつけられる部分をいくつか挙げたいと思う。

※あまり深く見るものではないものを、深く見ることになるので不必要な方は飛ばすことを推奨します。


【参照動画】
https://youtu.be/2t96sctUg5c


伊藤さん(ツッコミ)
畠中さん(ボケ)
(以下敬称略)


0:00-1:00

伊藤:お世話になってます。伊藤と畠中でオズワルドです。お願いします
畠中:あのー、この間ほんっと参っちゃったんだけどさ
伊藤:うん
畠中:友達と渋谷のハチ公前で待ち合わせしてたの
伊藤:うん
畠中:待っても全然友だち来なくて
伊藤:うん
畠中:2時間ぐらい待った時気づいたんだけど、俺、友だちなんて居なかったんだよね
伊藤:なになになになに
畠中:なにがなにがなにが
伊藤:お前は違うお前は違うよ、絶対違う。ちょっと落ち着けって。え、結局なにが言いたかったの

①叙述トリック的

オズワルドのネタを見ていてすごいなぁと思う部分は、会話の公理に沿っている前半から最後の最後の一文部分に「ズレ」をいれる、よく小説などで見られるどんでん返しのような叙述トリックが生まれているところである。
「待っても全然友だち来なくて」までは何の問題もない日常的な会話のため「うん」と相槌が繰り返される。その次の最後に「友だちなんて居なかった」と言うことで、「友だちと待ち合わせしている」という文を成り立たせるために必要な暗黙の前提の「畠中に友だちが居る」ことが否定される。
「友だちが居ない」のに「友だちと待ち合わせをする」ことは「b.質の格率」からズレる。
「友だちと待ち合わせをする」ことは「友だちがいる」という証拠が十分にあって成り立つものであるため、「友だちがいない」のに「友だちと待ち合わせをする」と言うことはボケだということがわかる。
そのボケに対し、ツッコミ伊藤は先ほどまで「うん」と相槌していたものから一転し「なになになに」と繰り返し驚きと動揺を表し、おかしいことを示す。が、「なになになに」と言われても「友だちがいない」のに「友だちと待ち合わせをする」ことを言うズレに気づかない畠中は「なにがなにがなにが」と、伊藤の「なになになに」と同じリズムで「なにが」を繰り返す。

畠中:あっ、友だちが欲しいなって話をしたかったの
伊藤:ちょっときもターボ強すぎて分かんなかったわ
畠中:そう

②印象に残るワード

昨年の「雑魚寿司」のようにツッコミの台詞に普段使わない語の組み合わせを用いる。「きもターボ強すぎてわかんなかった」というおかしみの指摘に対しボケ畠中は「そう」とだけ述べる。おかしいと指摘されていても「そう」とあまり驚きもなく自分の何がズレているのかわからないキャラクターであることが徐々に表出されていく。

伊藤:畠中、友だち0なの
畠中:ま、近所に何でも話せるお地蔵さんはいる

③突飛な推移がない

「友だちがいない」ではなく「友だち0なの」と数字を用いることで数の意識をここで出す。
「友だち0なの」の問いに対し、「ま、近所に何でも話せるお地蔵さんはいる」と答えることは、「友だちは同じ種族(人間)、または生物である」というものに反し「お地蔵さん」という無生物をだす「c.関係の格率」からズレる。
「友だち」に「お地蔵さん」は含まれないため、ボケになる。

伊藤:は、0だなぁ。俺、友だち0の人ってよく分かんないからさ
畠中:あっ、そう…。ってことは君は友だちいっぱい居るってこと
伊藤:俺はこう見えて友だち多いほうだと思うけど
畠中:ふーん。じゃあもし良かったらでいいんだけど、今度君の友だち、俺に1人くれないかな
伊藤:うん⁈
畠中:ごめんごめんもちろんあれだよ。君の中で1番、いらないやつでいいからさ

④サイコキャラ

「ふーん。じゃあもし良かったらでいいんだけど、今度君の友だち、俺に1人くれないかな
これは、グライスのどの格率からもさほどズレを感じないが、「友だち」を「贈与対象」として扱うことがズレになっている。「友だち」という関係性の築くものを所有するものと考えられる畠中のサイコパス的キャラクターがこの発言で確定的になる。

この4つが私が思うオズワルドの漫才に惹かれる部分である。


1:00-2:00

伊藤:あーこれが0かぁ。いやいや俺の友だちあげられないよお前
畠中:えっ、うぇっへへ?え?えっへへ、えっなんで?
伊藤:どの感情で喋ってるの。あげらんないよ、友だちは。
畠中:だったら、俺のお気に入りのズボンと交換しない?
伊藤:あんま、舐めんなお前。何で俺が自分の友だちとサイズの合わないズボン交換しなきゃいけないんだよ
畠中:それが嫌だったら俺にあげる友だち1人選んで
伊藤:お前にあげる友だちなんて選べないって
畠中:だったら俺が選んであげる
伊藤:はっ?
畠中:1番足が遅いやつ
伊藤:何だって
畠中:君の友だち全員一斉にグラウンド解き放ってその5秒後に俺が追いかけるから最初につかまった奴が友だちな
伊藤:人間の話じゃねぇよ。俺、村人が頭抱える妖怪と喋ってんのか
畠中:そろそろお別れの準備はできた
伊藤:それ出棺の時のセリフ。ってかさ、そこまで友だちが欲しいなら、もう俺がお前の友だちになってやんよ
畠中:ああ、そういうんじゃない、そういうんじゃない。君だけはないから。

この部分では「だったら」の使い方がおもしろいのだが、細かい言及は割愛する。

このようにして、漫才とは、ボケやツッコミとはと考えながら実際のM-1の漫才をみたが、最後に「何が人を笑わせるか」をいくつか言われているものを記して終わりにしたいと思う。

笑いの理論

笑は無感動をともなう。滑稽は平静で取り乱されない精神の表現に落ちてくるもので、客観的知的批判が必要である。

ベルクソン『笑い』(1924)

笑いとは何かという疑問に対し学問では
「何が人を笑わせるのか」という問いを立て、笑いの原因となるものや、誘発因となるものを見つける原因論アプローチの所説がある。

マシュー・ハーレーやダニエル・デネットらの『ヒトはなぜ笑うのか ユーモアが存在する理由』では大まかに以下の7つに笑いの原因論を振り分ける。
(1)生物学的理論(トンプソンやアイブル=アイベスフェルト)
(2)遊戯理論(ダーウィン=ヘッケル仮説)
(3)優位(優越感)理論(アリストテレス、ホッブス)
(4)解放(解発)理論(スペンサー、フロイト)
(5)不一致の解決理論(カント、ショーペンハウエル)
(6)驚き理論(デカルト)
(7)機械的ユーモア理論(ベルクソン)

人間はなぜ笑うのか、この中の(3)(4)(5)にあたるプラトンの優位説、カントの緊張開放説、シャーペンハウエルの対立説、加えて(7)のベルクソンの機械的ユーモア説における哲学者等の記述を記す。

優位説

他人の欠点や失敗を見聞きし優越感を持ったときに人は笑うという、アリストテレス、プラトン、ホッブスが語る古くからある笑いの理論。ドッキリなどの笑い。

滑稽は醜態であり、おかしさは醜さによるが、苦痛を与えない醜さである

アリストテレス

他人の欠点、または以前の自分自身の欠点との比較によって、自分の優越感を突如として認識することから生じる突然の栄光以外の何ものでもない

ホッブス

友人の滑稽な性格を笑う時、喜びと苦痛とがまじりあう。というのは、喜びと妬みがまじりあっているからで、ねたみは魂の苦痛であり、笑いが喜びであることはだれしも認めるところである。だが、この場合、喜びと苦痛が同時に生じる。

プラトン

「人は他人の中に弱点を見つけたときに笑う」「笑いは他人を軽蔑し、見下すことから生じる快感」

プラトン

笑は勝利の歌である。それは笑い手の笑われる人に対する瞬間的な、だが惣如として発見された優越の表現である。

マルセル・パニョル『笑についてのノート』

この優位説に働く笑いとして、私は自分が御前より優越しているがゆえに笑うという「積極的笑い」と、私はお前が私より劣っているがゆえに笑うという「消極的笑い」の2種が語られている。

緊張開放説

高まった緊張が不要となったときに、貯まった「心的エネルギー」が笑いによって開放されることで笑いが生まれるとされるスペンサーやフロイトが語る理論。酔った時の笑いや下ネタなどの笑い。

笑とは、蓄積された緊張を開放する手段である

スペンサー『笑いの生理学』

笑はある張り詰めた期待が、突如として無へと変わることによって生じる一つの情動である。

カント『判断力批判』

フロイトは、周囲の状況からからすれば、当然起こるはずの興奮を起こさずにすますことは、感情の消費を節約することで、ユーモアによる快感を覚えるものだという。
→周囲の期待に対する反発や緊張の解放が笑い(ユーモア)になる。

以下のような「圧縮」「転移」「統一」などが笑いにつながる。
・ 圧縮 
一つの言葉が二様の意味を持つもの
(同音異義語、造語、二重の意味)
・ 転移 
思考法の転移
アクセント(手段と目的)の転移
思考の欠落=詐欺、詭弁
・ 統一 
対立による説明
常識と無知を対比させることによって笑いを誘発させる


対立説

予期したことが実際にはそうならなかった場合の不一致が笑いを生み出すとする、ショーペンハウエルなどが語る理論。

笑が生じるのはいつでも、概念と、なんらかの関係においてこの概念によって施行された実在の客観との間に突然認められるから不一致にほかならず、笑いはそれ自身、まさにこの不一致の表現に他ならない。

ショーペンハウエル『意志と表象の世界』

概念と、何らかの関係においてこの概念によって思考された実存の客観とのあいだのとつぜん認められる不一致、笑いはそれ自身、まさにこの不一致の表現にほかならない=ある概念とこれに関連して考えられた事物とが一致していないということが突然分かったとき笑い出す

ショーペンハウエル

心理学者のサルスはこの人が予期していたものとの不一致からそれが解消される認知的ルールを獲得した際に笑いが生じる(不一致だけではなくその後の解消があって笑いとなる)2段階モデルをジョークとオチのプロセスとして説明している。

機械的ユーモア

緊張と弾力の欠けた機械を思わせるものを間違ったものとして矯正すべきであり、その間違いをとがめ、除去しようとするのが笑いである

ベルクソン『笑い』

ex.)チャップリンモダンタイムズ
・繰り返し 所作の機械的な繰り返し
・ひっくり返し ペテン師がペテンに引っかかる
・取り違えから生じる系列の交差
・移行 
荘重なものから卑近なものへの上→下への移行、
不真面目な考えを真面目な言い方で表す下→上への移行がある。

ベルクソンは、流れ動く声明をとらえようとした生の哲学者であり、躍動する人間においては、緊張と弾力の欠けた機械を思わせるものを、間違えたものとして矯正しようとすると考えている。
そのため、同じことの「繰り返し」や「取り違え」は機械的と思われ、滑稽に見え笑って批判するのだと説明をする。これは、カントの緊張開放説と同様に、笑った後の心理的快感を笑いの効用として認めたものとなる。

結論としては、笑いについて真剣に語るものではないという考えに至った。オズワルドはおもしろい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?