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働くことをあまりにも怖がっている自分へ

先日まで数日間、「ムダに過ごす」と決め込んでいた。ちょっと美化してみると「ただムダを楽しむ」をテーマに過ごしていた。私は、”ムダ”という言葉に世間で思われるよりはポジティブさを感じており、人生という「時間」を考えようとするとき、最近意識するようになったまあまあ思い入れのある言葉である。

さて、「ムダに過ごす」を決め込んだ数日間、私は自分がどのような行動をして何を感じるのか、自分で試していた。お金もいつもよりたくさん持って、時間的にも金銭的にも「ムダ」に使おうと考えていた。学生生活が「そういう時間」だと世間では言われることもあるが、そうすることが怖くて、ムダに過ごしてはいけないと思い込んで(焦っただけで結局何もしなかったが)気分的にはほとんどできなかった私にとっては画期的な数日間である。

その結果わかったのは、私はただただ歩いていればご機嫌の人、のようだ。地元を離れていたというのに、地元を散歩するときとは何ら変わらず、ただ歩いていた(つくづく殻を破ろうとしない人なんだなあとも)。時折、古本屋を見つけては立ち寄り、気になった100円の本を買ってみて、それを河川敷に座って読んでみたり、少し飽きたらまた歩いたり。お腹が空けば近くのパン屋さんで80円のロールパンを買って河川敷で座って食べて満足していた。どこ行ってもしてること変わらないじゃん!と自分にツッコミを入れながら、それでも気づいたら早朝から20キロ以上、毎日軽く歩いていて、反対に、あまり歩かない日が続くとストレスになることもわかった。

一方で、こうして一人でひたすら歩いている自分が寂しさを感じていることもわかった。東京生まれ、東京育ちの私は、一人暮らし経験のある母親が言う、「寂しさの辛さ」を知らないことをある種のコンプレックスのようにも感じている(それで先日、『寂しさの力』という本まで読んでいた←けっこう面白かった)。寂しさを「見なくてもよい」私にとって、寂しいという感情が自分にもあるのかも、と素直に感じられたこと自体が新鮮だった。これに気づいたのは、古本屋で購入した自分の選書からであった。

そこで、寂しさからかはわからないけれど、喫茶店に入ってお店の人と話をしたとき、私はやけに、自分が「働くこと怖がっていること」に気づいた。

4月から社会人なんです、、というと「おめでとう」と言ってくださることも新鮮で嬉しかった。4年で卒業してしまうなんてもったいない、もっと卒業のばしなよ、という雰囲気のある私の周囲では、あまり歓迎されていないようにすら感じる、ストレート卒業と就職。そんなの当たり前だよね、という別のコミュニティの空気。それらに囲まれる私にとって、卒業と就職を社交辞令でもおめでとう、と声をかけてくださったのは、働くことを恐れている自分には救いであった。

話を続けていくと、私の声のトーンや表情から、働くことを怖がる様子が漏れていたらしい。そんな私に、出会った大人たちは、楽しいことも見つけられるはずだよ、とか、考えてもキリがないしね、と言ってくださった。そういうことを言われて、自分は働くことをすごく大きなものとしてとらえていたんだとわかった。

働くことの、一体何を恐れているんだろうか。たぶん、飲み込みの遅い自分が同期よりも「できない」こと、周囲から評価されないことを一番恐れているのだろう。もちろん、初めての「働く」という行為に対する緊張感、学生時代とは違い、右も左もわからないから見通しが立てにくいということも大きい。それに、職場の空気感に馴染むことができるだろうかとか、叱られたりお客さんに理不尽なことを言われたりしたときに、自分が耐えられるのかな、とかそういう不確実性からくるものも大きい。つまり、自分のバリアを破られるのが怖いということなのかなとも思う。

先述のように、周囲に卒業を延ばしたり大学院に進学したりする人が多い環境で、ストレートに就職する友達があまりいない、ということからくる不安もある。そのような環境で、私にも当然休学や院進という選択肢も身近だった。しかし、もっと大きな世間の流れに身を任せ、私は就職をする。でもこの最もありふれた選択は、自分にとっては、考えられる選択肢の中で最も挑戦的であった。なぜなら最も生活が大きく変化しそうだし、楽しくなさそうだし、考え方そのものにも大きく影響しそうなほど、かけ離れた価値観の場所に踏み出すことになりそうだから。その分だけ自分が受ける影響も大きいと思う。その善し悪しは誰にもわからないけれど、その時期は体力的にも少しでも若い方がいいのかもしれない。

こうやって整理して書いて、自分を納得させようとしなければいけないほど、怖くて自分が嫌がっている「働く」ということを、10日後からするんだなと改めて思う。

ムダ週間終了の翌日、ムダ週間を振り返りながら深夜にメモしたとても恥ずかしい文章(note自体がそうなのだが)をここに載せてみる。

卒業も就職も決まり、両親も気の合う友達もいる。そんな、人生でそうやってこない不安も少なく満ち足りた時期に、軍資金もたくさん持って、一人旅、ときどき3人旅をした結果、自分が解放されたときにどんなことをすると心地よいかが少しわかった。これほど恵まれた時期が来ることは、もうないかもしれないけれど、そんな解放感と安心感を謳歌できたのは、私の満ち足りている今の象徴でもあり、この平穏で幸せな日々の総仕上げのようにも思えた。「働く」を終始意識し、自分の時間をどのように使うか、を意識した、最初で最後の「能天気」な旅。終わりたくないけれど終わらせなければならない。そんなに働くを恐れなくてもいいんだよ、と自分に言ってあげながら。

これからの日々をこれでもかと悲観的に考えていることがわかる。そんなに気負わなくてもいいと頭ではわかってるはずなのに。

でも「働く」は、たぶん自分にだって自分なりにはできるんだろうとも思う。そんなに大きく捉えなくてもいいんだと思う。今好きなことを続けてていいんだし、続けるべきだし、だいいち、今の暮らしの延長にあるものなんだと思う。どこか4月からの日々が断絶されているかのような感覚を抱いてしまっている。もしかしたらそれを怖がっているのかもしれない。

こうやって、書いて整理してみたけれどどうだろう。10日後の自分が何を考えてどんな気持ちで何をしているのかが、全然想像つかない。

やっぱり怖い。



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