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旧暦カレンダーと1年を過ごしてみて①

あったんだかよくわからない2020年、私は雑誌の付録の旧暦カレンダーを机に置いて生活していた。感想を一言で表せば、旧暦カレンダーはたのしい。だからもう少し知りたいと、松村賢治(2010)『旧暦と暮らす』をのぞいてみた。今日はその導入編として、旧暦の仕組みを勉強してみた。

旧暦とは

旧暦とは、「太陽太陰暦」のことで、明治5(1872)年まで日本の官暦であった。太陽太陰暦は、月の一年(354日)と、太陽の一年(365日)の差である11日をうまく工夫して、月と太陽の運行の両者を取り入れた、非常に高度で科学的な暦である。4000年ほど前から、中国の黄河流域で「農暦」として使われ始め、日本には6世紀半ばに伝来。東アジアの「地域暦」として、また、世界各地の華僑の人々の年中行事の基準となる「生活暦」として、今も世界各地で活かされている。

現在、世界で広く使われている暦は以下の3つである。

太陽暦……世界標準暦であるグレゴリオ暦がこれ。2月を閏年とすることで、実太陽暦との誤差を修正している。

太陰暦……月のサイクルを基準に一年を決めた暦。月が、地球の周回軌道を一周して同じ姿を見せるには、約29.53日かかり、その12か月分である354.37日が一年とされる。一か月が29日の月と、30日の月ができることになる。季節変化のほとんどない砂漠地帯で、しかも太陽があらゆる生き物の生存を脅かす存在であれば、一日の生活が日没から始まり、月の姿がそのまま日付を表す暦で何ら不自由はない。イスラム教徒は、「月ごよみ」を生活基準としている。ちなみにラマダン(断食月)は、第9の月の新月から、次の新月までと定められている。

太陽太陰暦……月と太陽の運行を両方取り入れた暦。月の一年は、太陽の一年に対して11日足りず、3年たつと33日の差が生じる。すなわち、少なくとも3年に一度は13か月の一年を作ることで、太陽暦と重ねている。その月を閏月と呼び、19年に7回加えることになっている。例えば、8月の次にもう一度8月がくる場合は、「閏八月」と呼び、閏月の入る1年は、13か月の年となり、1年が384日前後の長い1年となる。

『旧暦と暮らす』では、やさしい天文学とともに、太陽太陰暦の仕組みが詳述されている。太陽、地球、月の位置関係をとらえていくと、「旧暦」では、月の形がそのまま日付となると気づく(つまり、月のはじまり1日は新月)。日々の流れが実感しやすそうだ。また、太陽・月・地球の順番に一直線に並んだ時に起こるのが日食であり、必ず新月、つまり1日に起こる現象となる。月食は反対に、満月の夜にしか起こらず、日食や月食の予測がしやすい。加えて、月の引力と潮の満ち引きの関係も浮かび上がってくる。

旧暦時代は月の姿と、その見える時間帯でも日付を知ることができた。例えば、上弦の月前後は宵月夜(よいづくよ)と呼ばれ、満月を過ぎた下弦のころは有明の月、朝月夜(あさづくよ)と言い慣らされていた。その呼び名にうっとりしてしまう。

二十四節季は旧暦ではない

私が使用していた旧暦カレンダーには、二十四節季の名称や、その由来等が一緒に書かれていた。ふむふむ、もうすぐ雪が降り出す季節かな、などと二十四節季を参照しながら季節を感じようとしていた。しかし、そこには大きな落とし穴があったのである。

天文学では、地球の周回軌道360度のうち、春分をスタートの0度と定め、90度が夏至、180度が秋分、冬至は270度としている。西洋の四季表現と共通しているが、旧暦ではこの90度ずつをさらに6分割し、交互に12ずつ、「節気」と「中気」を配しながら、計24にしたのが二十四節季というわけである。節気は、下図の立春、啓蟄、清明…にあたり、中気は、雨水、春分、穀雨…といった具合に配されている。古代中国では、その月の中気の在・不在で閏月が入るタイミングを決めてきた。

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画像:暮らし歳時記HPhttps://www.i-nekko.jp/meguritokoyomi/nijyushisekki/

二十四節季の名称や意味については、次回述べることにして、以上からわかるのは、二十四節季は旧暦(太陽太陰暦)ではなく新暦であること。だからこそ、二十四節季は、季節を知る大まかな基準でしかなく、太陽太陰暦の旧暦のほうが、日本の四季を「地域暦」として適正に表現し、体感季節に添うように感じられるのである。

旧暦は、閏月で太陽暦とのズレを修正して構成されているが、月と太陽の周期に合わせて閏月が入るためか、閏年には見事に旧暦通りの季節到来を示すのだという。例えば、旧暦の「夏」に閏月が入ると、その夏は不思議と平年より長くなり、残暑が続いて「秋」の入りが遅れるそうである。一か月もの閏月が入ることが不合理で使いづらい、とされる旧暦も、季節をつかむことが重要な農業・漁業にとっては特に、非常に合理的な暦である。

二十四節季を見て、季節の流れをつかもうとしていたが、新暦を基準とした決まりであるゆえに、大まかな季節変化を知ることしかできない。同時に、旧暦の季節変化の感覚の微細さに、また一本取られたような気持ちになる。

旧暦と歴史的事件を照らしてみると

ここまで、体感季節に添ってはいない二十四節季と、自然のリズムを素直に刻む旧暦、という比較をしてきた。地球の生命は、太陽の光や月の引力とかかわりながら生きている。ゆえに、太陽と月の運行を掛け合わせた暦は、自然の移ろいや季節の兆しを感じ取るのに適しているのである。

中国伝来の「農暦」(旧暦)を、日本に合わせ、どのように改良を加えてきたのか、その変遷と歴史的な事件とを照らしてみると、非常に興味深い一致が起こる。

日本でこの「農暦」が公式に使われ始めたのは、604年の推古天皇のころ。日本の歴史上の年号は、これを境に正確にあらわされるようになり、農業や漁業の生産性も飛躍的に向上。これによって生まれた生活のゆとりが、のちの天平・白鳳文化をはぐくんでいったといわれている。

894年、菅原道真の提言で遣唐使が廃止された。それでも、そのまま当時の宣明暦を800年使い続けたところ、日本の暦と中国のそれとの間に2日の誤差が生じ、日食や月食の予測が外れるようになっていった。例えば、1582年は6月2日に日食が起きた。その未明、明智光秀は織田信長に闇討ちを掛け、信長は自害。本能寺の変の日食は、すでに1日のズレを示しており、1日にしか起こらないはずの不吉な現象を、人々は信長の無念のたたりと見たようである。

ちなみに、同じ1582年、ローマ教皇グレゴリウス13世は、カエサル時代のユリウス暦で生じた10日の誤差を修正するため、今の世界標準暦、グレゴリオ暦への改暦を発令している。

本能寺の変からさらに100年ほど経ち、誤差が2日に増えていた1684年。江戸幕府の渋川春海は日本独自の「貞享暦(じょうきょうれき)」を編纂し、2日の誤差を修正した。この時には、グレゴリオ暦も参考に、北京と京都の1時間の時差も修正された。そして、その後の1度の微修正を経た1844年、「天保暦」が編纂された。修正の要点は、地球の太陽周回軌道を偏心楕円ととらえた点で、天文学的に世界で最も正確な「太陽太陰暦」となった。

しかし、それから30年足らずでこの暦は使われなくなり、1872(明治5)年に「西暦」を「新暦」として使うようになった。明治政府による「改暦の詔勅」には旧暦について、「迷信が多く、知識進歩の妨げとなる」とまで記されている。

日本における暦の変遷から、歴史をのぞいてみたが、旧暦は、潮の満ち引きや月明かりの予測にも長けている。例えば、源氏が平氏を滅ぼした壇ノ浦の戦いは、旧暦の日付をたどると、潮を見事に読んでいるのがわかる。赤穂浪士の討ち入りは、旧12月14日。雪明かりの上に、満月に近い月明かりを計算に入れた戦略が見えてくる。一方、曽我兄弟が夜襲を掛けたのは旧5月28日。月夜にたった2人で大群に夜襲を仕掛けたのではなく、闇夜に紛れて行う作戦だったのだろう。

小まとめ

旧暦の奥は深い。旧暦や太陽太陰暦の仕組みと、バイオリズムを踏まえた旧暦の奥深さについて勉強した。二十四節季では細やかな季節変化をつかめないことにショックを受けたり、暦と歴史の関わりに惹かれたりしたが、次は、太陽・月・地球と生命のバイオリズムを捉えようとする旧暦の細やかな季節感覚や、東洋思想の原点ともいえる陰陽五行説についても勉強してみたい。

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