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大人の遠足〜③桂離宮

大人の遠足の最終目的地、桂離宮の見学です。
ガイドツアーの最終時刻の午後4時を予約していました。

宮家の別荘だった桂離宮

後陽成天皇の弟、八条宮初代智仁親王が創建した宮家の別荘として桂離宮の歴史は始まりました。1615年山荘を造営し、「桂山荘」を完成させます。

その後、二代智忠親王は加賀藩前田家の息女を妻にしたことで、財政的な裏付けもあり、山荘の増築に着手します。
1663年の後水尾天皇の行幸のため新改造をし、その後、火災に遭うこともなく創建当時の姿が残っているといわれています。

この二人は御陽成天皇の息子の御水尾天皇、御陽成天皇の弟の息子の智忠親王なので、いとこ同士になります。
行幸時の年齢は後水尾天皇は67才、智忠親王は行幸の前年43才で亡くなっていました。行幸を迎えたのは、息子の穏仁親王当時21才です。

随所に美的センス

御幸門から表門までの道

後水尾天皇行幸のために作られた表門から御幸門までの約50mの道幅は、表門側が2.5m、御幸門側が3.5m。道幅が1mも違うのです。ルネサンスの遠近法を応用して、来るときは近く感じ、帰るときは遠く感じるように。
17世紀中ごろにルネサンスを応用していたなんて驚きです。

これは21才の穏仁親王の案とは思えません。
亡くなった智忠親王はいとこで23才年上の後水尾天皇を自分で迎えたかったでしょうね。

御幸門の柱はアベマキという自然木のコルク質で丸太を巻いている
「衝立の松」で全てを見せない工夫
南国風の蘇鉄は薩摩島津家からの献上
敷石にも意味がある(長い切り石と自然石の使い方)

桂離宮の敷石は、書道の真・行・草を意味して、格式のある場所は切り石、そこからリラックスできる場所へは自然石を配しています。
その途中は、上の写真のように混ざってます。

一番格式の高い茶室「松琴亭」

茶室「松琴亭」の襖の青と白の市松模様は、当時のデザインとしてはとてもモダンです。
そして、もっと驚くのは、茶室の裏方である水屋を表の外部に設置していること。今でいうオープンキッチンです。

見えるところにあっても美しい水屋

桂離宮の「不整美」

水屋の柱にも御幸門と同じアベマキというコルク質が外側に使用されているのですが、真ん中の1本は普通の丸太のままです。
すべてを統一しない「不整美」。

水屋の柱もアベマキを使用
ただし、3本ある柱の真名1本は普通の丸太

この「松琴亭」に来るために池を船で渡ってきて上がってくるところにも敷石が配されています。

和舟からここに上がってくるなんて風流
茶室「笑意軒」の丸窓

別の茶室「笑意軒」のかわいい6個の丸窓。
このそれぞれに格子が配されていますが、これがどれも同じではなく、ここにも「不整美」が施されています。

凝りに凝った「古書院」周辺

これが有名な「古書院」
「古書院」の左は敷石などなく、おそらく蹴鞠などの場所だった
古書院の月見台が新しいのが少し残念

書院造りで有名な「古書院」は名月の方向に合わせて、東北から29度、東に向いて造られています。

「月波楼」からの景色

古書院のすぐそばにある「月波楼」。
上の写真の右側の開口部は東向きで池=海の景色。
左側の開口部は北向きで野原=山の景色。(手前にある池が見えないように工夫されています)

一番心に残ったもの

回遊式庭園はもちろんきれいだけど

凝りに凝った建物、景色。それがこの時代まで残っていることはすばらしいことだけれど、私にはその背景にある人間の感情を思わずにはいられませんでした。

後水尾天皇の行幸まで生きられなかった智忠親王。
おそらく天皇になるまでに、叔父であった智仁親王の別荘の桂離宮=桂山荘に来て、触発されて?(私の想像)修学院離宮を造営した後水尾天皇が、その10年後、67才でこの桂離宮を見てどう思ったのか?

豊臣秀吉、徳川家康と武家に翻弄されたこの時代の天皇周辺の人々の生涯が一番心に残ったのでした。




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