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迎賓館赤坂離宮

四ツ谷にある迎賓館赤坂離宮へ行ってきました。

現在は外国賓客が招かれる迎賓館

美しい建物です

先月行った京都迎賓館も外国賓客を招くために建てられたものですが、こちらはもともと明治時代後期に東宮御所として建設されたものを、昭和に迎賓館に改築しています。日本で唯一のネオ・バロック様式の建物です。

フランスでナポレオン3世の第二帝政の出現(1852)とそのパリ改造計画(1853-70)を契機として起こったバロック建築様式の復興をいう。ビスコンティLudovico Visconti(1791-1853)とルフュエルHector M.Lefuel(1810-81)は,ルーブル宮殿新館でイタリア・バロック風の彫塑的な壁面とマンサード屋根を組み合わせ,これは,いわゆる〈第二帝政式〉として流行した。また,C.ガルニエオペラ座(1861-74)はその豪華壮麗さで世界を驚かせ,当時帝国主義的競争の渦中にあった先進諸国は,ネオ・バロック様式こそ国家の威信を最もよく表現する建築様式とみなして,いっせいに採用するようになった。ブリュッセルの高等裁判所(1866-83),ウィーンの王立劇場(1874-88),ベルリンの帝国議事堂(1884-94)などはその代表作として著名である。日本でも,明治10年代から第二帝政式の影響が顕著に現れて,赤坂離宮(現,迎賓館,1909)でほぼ完全なネオ・バロック様式を実現している。

出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」
赤坂プリンスホテルもバッグに見えます

西洋の宮殿を建築する

江戸時代、紀州徳川家の江戸藩邸だったところが、明治になって明治天皇仮御所となり、その跡地に後の大正天皇がご成婚を控えていることもあって、東宮御所として建築されることになりました。

1899年(明治32年)~1909年(明治42年)の10年の歳月をかけて、当時のエリート建築家:片山東熊が西洋の宮殿に匹敵する宮殿をとの思いで設計したそうです。

明治維新で日本が西洋建築に触れてからわずか30年で、西洋の宮殿を建築する。しかも東宮御所。すごいプレッシャーだと思います。

片山東熊は、工部大学校(現:東京大学工学部)造家学科第1期生で、東京駅の設計で有名な辰野金吾と同期です。
明治政府によって建築学の教師として明治10年に招聘されたジョサイア・コンドル氏の最初の学生の一人であり、このコンドル氏は鹿鳴館やニコライ堂、現在美術館として利用されている三菱1号館を設計しています。

大正天皇は住まず

東熊が受けたのが「結婚を控えた東宮(大正天皇)のために、新居となる東宮御所を建設せよ」という命だった。列強に肩を並べることを目指した時代、西欧の宮殿に遜色のない建造物が求められた。しかし実際には、洋風文化を受け入れはじめたばかりの日本では、建設工業技術のレベルからみても、室内装飾や日本特有の地震対策の見地からも極めて困難なものだった。

これらの問題を解決するために、東熊の元には当時の日本を代表する学者、芸術家、技術者が集結した。室内装飾の調査と製図には、東京美術学校(のちの東京芸術大学美術学部)教授の黒田清輝(くろだせいき)、装飾用七宝下絵作成には、同じく東京美術学校教授の荒木寛畝(あらきかんぽ)と渡辺省亭(わたなべせいてい)、地質の調査には後に「応用地質学」の草分け的存在となった巨智部忠承(こちべちゅうしょう)。一部だけを見ても錚々たる顔ぶれだ。

建築、美術、どちらの領域でも国内の精鋭たちのセンスと情熱を総動員して始まった東宮御所の建設は、まさに一切の妥協を許さないもの。柱の装飾のためにわざわざ欧州に職人を派遣し技術を習得させる、東熊自身も建設期間中も室内装飾の調査や部材発注のためにたびたび海外に出向くほどの力の入れようだった。

総工費は当時の金額で約510万円余り。東京の小学校教員の初任給が13円という時代だ。現在の貨幣価値に換算すると941億円を超えるという計算もある。後述する改修工事の行われた昭和49年の専門家の見立てでは、当時ですらなかなか手に入らない素材が多く、2000億円をかけても同じような立派な建物はできないとされた。まさに、類を見ない壮大かつ絢爛豪華な宮殿が誕生したのだ。

LIFULL HOME'S PRESS より

完成した建物を明治天皇が見て一言「派手で豪華すぎる」。
この一言で、片山はその後病気がちになったと言われています。

明治天皇に遠慮したのか、病弱だった大正天皇も住むことなく、「赤坂離宮」という名前で(「離宮」とは普段は住まない宮殿ということ)呼ばれていた大正12年、関東大震災が起こります。

関東大震災でも被害がなかった建物

地震対策といった建築技術面においても、壁の中に縦横に鉄骨を入れ、床にも鉄材を用い、屋根組も鉄製にして銅板を葺くなど耐火構造も徹底しており、強固な基礎と厚い壁は大正12年(1923年)の関東大震災にも耐え、平成23年(2011年)の東日本大震災時にもほとんど影響しなかったといいます。

建物の内部は撮影禁止のためホームページでそのすばらしさをご確認ください。

摂政宮だった裕仁親王(後の昭和天皇)がご成婚後に住むはずだった霞ヶ関離宮が関東大震災で被災したため、この赤坂離宮で大正13年(1924年)~昭和3年(1928年)まで新婚生活を送られます。

先の3枚の写真は北側(表門のほう)、こちらは南側
南側の庭園の噴水

私はこの南側からの景色が穏やかで、いいなあと思いました。
こんなところで新婚生活いいなあ…でもそのあとの激動の昭和を生きる天皇。複雑な気持ちで宮殿を眺めました。

賓客の植樹

南側の庭園には賓客の植樹が3本あります。

フォード大統領
ゴルバチョフ大統領

この二本の樹木は広い庭園にわざわざ隣合わせに植樹されています。
当然、時代的にあとから植樹したのはゴルバチョフ大統領でしょう。
ご本人が植える場所を選ぶとは思えないから、おそらくこれは日本政府の計らい。米ソの冷戦から平和を願ったのかもしれません。

エリザベス女王来日時の植樹


安倍首相とトランプ大統領が歩いた和風別館庭園


ゴールデンウィークにはキッチンカーも

外国の賓客の接遇施設。これがいつまでも有効に利用されて、多くの植樹が繰り返されるように平和であってほしい。
そしてこの強固な建物が避難所となるような大きな震災が起こらないでほしいと願うばかりです。

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