見出し画像

(Book)✨天才を殺す凡人

小さい頃から自分は天才ではないなと思っていました。
天才だったら浪人しないですしね。どちらかというと努力家で、ただ、物事を効率するのは得意なように思います。
だから天賦の才能っていうのは羨ましかったんですよね。下の姉は人に好かれる能力が人一倍長けていて、幼い頃から凄いなぁと感心していました。
本当に色んなものを色んな人からもらってくるんですよ。あげるわ〜って。
(最近、自分もその傾向が強くなってきたなと思います。いろいろもらう。遺伝なのかな)
というわけで、天才を殺す凡人という本を手に取ってみました。



天才は、この世界を良くも悪くも、前進させることが多い。だが、彼らは変革の途中で、殺されることも多い。それは物理的な意味も、精神的な意味も含めてだ。

以前から、そのメカニズムを解き明かしたいと思っていた。そしてようやくわかった。

天才は、凡人によって殺されることがある。そして、その理由の99.9%は「コミュニケーションの断絶」によるものであり、これは「大企業がイノベーションを起こせない理由」と同じ構造である。

どういうことか?

ダイヤモンドオンライン


凡人と秀才と天才

教師という仕事をしていると、たまーに天才と会うことがあります。
簡単に言うと理解不能。言語化することができないけれど、すごい力を感じる。
なぜなら、この本に準拠すると、天才の能力とは創造性だからです。
今までにないものを生み出す力が天才。そこに圧倒的多数である凡人が魅力を感じるのは、至極当然のように思います。
しかし、日本人の凡人が長けている能力は共感性。そして、圧倒的多数である凡人たち。出る杭を打つ論理に基づいて天才を叩き続けます。
それゆえ、天才は才覚を現した当初、凡人に殺され、創造性を発揮し終えた後に忘れ去られされるという悲惨な運命をたどるそうです。

これを学校教育に当てはめてみると、みんなができることをしっかりするようにとか、他人に共感する能力を持つように、とかいう指導をしていて、自分も凡人の端くれとして凡人教育をしているなと思います。
一方で高い共感性を凡人が持てば天才に対して羨望の眼差しを向けることができるんじゃないかなと思います。
自分にはないけれど、すごい能力に対し尊敬の念を抱くというか。
そのためには、自分の良い所をきちんと理解し、言語化する(この後もサイエンスというワードで言語化可能かどうかという面についても、本書で言及されます)ことが第一のように思います。


秀才を育てていく、専門教育

自分の勤務校の生徒達は賢いなとよく思います。
高い共感性を持つため、凡人のLINEは軽々クリアできています。もちろん全員ではないけれど。
だからこそ、私の仕事は凡人を超えた秀才を育てていくことだと思います。天才は遺伝的なものにもよるかなと感じています。


凡人と天才と秀才の違い


この絵から分かるように、秀才は再現性で評価されるものとされています。
再現性とは何かと言われると、前例があって説明ができること、つまり、高度な説明能力により論理的に物事を解明することができることを指します。

でも共感性が高ければいいんじゃないのと思う方もいらっしゃるかもしれませんが共感性にはエビデンスが欠如しています。
共感性とは、みんなが知っていることを理解できていることを指しますが、例えば本書ではジャンケンが挙げられています。
なんでチョキってパーに勝てるんでしょうか。そんなところに説明を入れる人はいません。
つまりみんなが共感していることって根拠のない場合があるんです。そうすると、暴走が始まります。典型的な例が戦争ですね。あとは選挙において知的能力の低い人達を囲い込み、票を獲得する方策などもありますよね。
だからこそ、凡人は秀才になっていくために教養を身につけ、論理性を高めていく必要があります。


とりあえずやってみたらC秀才でした。



共感性の危うさと、アラジン

ディズニー映画ってあんまり見たことないんですが……本書ではアラジンの、愚民政治について説いています。
具体的には以下のようなもの。


アラジンは貧しさからパンを盗み食べようとするが、目の前でお腹を空かせている子供達に分け与える。凡人たちはこのアラジンに共感をするが、アラジンは明らかに犯罪に手を染めており、もし放映されている場面がアラジン側ではなく、パン屋側であったならば、パン屋はアラジンにパンを盗まれ、嘆き、悲しむ光景が映画上で展開され、アラジンに対して酷く反発を生む。このように共感性は愚民政治を招いてしまう。

なるほどなぁと思いました。共感する時には主人公に共感しがちですが、きちんと平等に全ての人に共感することで客観的な判断を下すことが出来るように思います。


秀才は法律をベースにして生きる

読めば読むほど、自分は秀才を育てようとしているんだなと感じます。
凡人の価値基準は快か不快かです。好き嫌い。根拠なし。好きはいいけど、嫌いなベクトルになった時、駄々っ子みたいになってしまいます。
一方で秀才の価値基準は一方で秀才の価値基準は自分が知っていることを精選していることなの、あるいはにとっての利益や明文化されたルールなどの善悪タイプがあるそうです。
後天的な才能を伸ばしていくには、善悪タイプで物事を考えていくのがいいかなと思います。
本書での例も挙げられているように、校則を守ることなどが挙げられますね。秀才タイプは校則の意義を考えることができます。
例えば、制服があるのは経済的な差異による区別をなくしたり、服を考えるという時間を削減したりというメリットがあります。
また、勤務校の生徒はよく学校でスマホを使えたらなと言いますが、1度使い始めると授業中も使ってしまい、1人が使い始めると複数が使い始め、授業の質がどんどん下がっていき、最終的には学校に対する評価が下がっていきます。
この世に既存のルールに対する善悪の判断を論理的にできるっていうのが秀才の強みです。
もちろん校則というものは時節柄に応じて変えていくものだとも思います。
特に勤務後は今大きく変わっていて過渡期のような感じだなと思います。
だからこそ、なんだかゆるいなとか思う時もあるんですが、あと二、三年したら落ち着くのかな。

ただ一つ言えることは、自分の好き嫌いで判断してルールを破るのは良くないということです。
ルールが間違っているなと思った時に、じゃああなたならどうするかという次元に立ち、社会を変えていくというのが私たちの期待していることです。

自分の武器を知るということ

さて、本書では一貫して天才と秀才と凡人に話を転換しながら論が進んでいきますが、私は秀才にのみフォーカスを当てながら話を読んでいます。
もしも自分の勤務校が、勉強にフォーカスを当てない学校であれば、天才と凡人にフォーカスを当てていたんだと思います。
自分が卒業した高校であれば、音大に進む人たちなども多かったので、天才肌の人が多かったように思います。

閑話休題、秀才が持つべき、相性の良い武器は、以下のようなものと取り上げられています。

サイエンス、組織、ルール、マネジメント、数字、編集、書面、法律

191ページより

早熟の天才というのは早い段階で自分の敵する武器を見つける人だそうです。
やっぱり秀才を目指す教育をする場合には、サイエンスとか、データマネジメントが必要なように思います。
客観的な数字という視座を元に、論理を展開していくというのは、秀才教育の上で非常に重要ということを再認識することができました。
凡人は言葉が重要と書いてありましたが、うーん。言葉が出てくると論理性が伴った方がいいと思うんだけどな。その点はあんまり共感できませんでした。


最後にこちらの本ではすべての人の中に天才も秀才も凡人も存在すると書かれていました。
つまり、その割合がどのように顕在化するかということです。
私も基本的に秀才でありたいと思うんですが、全く論理的ではない、美術館も大好きで、アートと相性が良いのは天才思考です。
一方で他人の考えをきちんと理解する共感性も重要だと思っており、指導にも入れているので、凡人でもあります。
その三者が共存する中で一番秀才的な側面が大きいというただそれだけ。その様な人でありたいなと思いますし、生徒達の中もそのような人でありたいと思う人が多いのではないかなと思う場所で、現在勤務しています。


この本、すごく面白かったです。著者の方をもうちょっと深堀してみようかなと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?