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『ケス』 メンタルクリニックの映画館

『ケス』
(ケン・ローチ監督、 1969年)

【前口上】

 今日は、1969年のイギリス映画『ケス』をご覧いただきます。

 舞台はイギリスの炭坑町。主人公のビリー・キャスパーは、卒業間近の中学生です。シングルマザーの母親と、炭坑で働く兄をもち、自分も早朝の新聞配達で家計を助けている。孤独なビリーは、ある日、野原で見つけたハヤブサの巣からヒナを家に連れ帰り、調教して飼いならすことに夢中になります。
 しかし、ビリーの将来には過酷な現実が待ち受けています。
 イギリスを代表する社会派監督、ケン・ローチが少年の成長を、みずみずしい映像で描いた出世作です。


【上映後】

『ケス』をご覧いただきました。

 “ケス”という名前は、映画のなかでkestralと言っていますが、和名がチョウゲンボウ(長元坊)という小型のハヤブサ、その頭3文字をとって、主人公のビリーが名付けた。
 イギリス・北イングランドの炭坑町が舞台。オール・ロケーションで撮られています。家庭の室内シーンも、パブも学校も、スタジオ・セットではなく、すべてロケーション。俳優は、プロの俳優も使っていますが、主人公のビリーは、ロケーション・ハンティングで見つけたあの炭坑の地方の少年だそうで、素人俳優です。

 ご覧になって、いかがだったでしょうか?第一印象として「みずみずしい映画」だったなとか、「ドラマの描き方が新鮮」だったなとか、漠然とでも感じていただけたとしたら、今日、この映画を選んだねらいは、半ば以上当たった、と思っているんですが…。
 その秘密には、映像の作りの問題もあるので、そういったことにも触れながら、お話したいと思います。

冒頭シークェンスを読む

 映画は、寝室の暗がりで始まります。第1ショット。観客は、まず目を凝らすよう促される。ベッドを正面から撮っています。
 目覚まし時計が鳴って、ビリーが兄のジャドを起こす声が聞こえる。

 まだ、夜明け前ですが、兄のジャドは炭坑に働きに出る時間。兄が弟を小突きながら起床します。が、ここで主人公のビリーが画面の中央にいない―身体の大きな兄が画面の多くを占めていて、むしろ画面の隅っこに小さくうずくまっているのが主人公だというところが、ちょっと面白い。

 ビリーは「まだ寝ていたい」と毛布を引っかぶります。

 兄弟のあいだで、「さっさと起きろ!いずれ、お前も炭坑へ行くことになるんだ」「行かない、炭坑はイヤだ」「ほかに仕事があるか?読み書きも満足にできないヤツを誰が雇う」という会話が交わされ―この間にショットが変わって―ジャドが部屋を出てゆく。
 明かりを消すためにベッドから出たビリーが、もう一度ベッドにもぐり込んで、つかの間の眠りにつこうとする姿を、少しアップに寄って捉えたところでクレジット・タイトルになります。ここまでが、第2ショット。

    たった2ショットですが、少し詳しく喋ったのは、はやくもここで、作品の主題が提示されているからです。
 卒業を控えた中学生の少年が、主人公ですね。炭坑町に生まれ育った少年の典型的な進路として、卒業後は大人の仲間入りをして炭抗夫として働くことを運命づけられている。これから始まる物語は、そんな主人公の見る、少年期最後のつかの間の夢なのだ―というこの作品の主題が、日々の生活のひとコマとして、さりげなく提示されている。

第2ショットから  つかの間の眠りにつくビリー

 つかの間の眠りにつこうとするビリーの姿は、ラストシーンと対応しています。ラストでビリーは、ケスの屍骸を埋めることで、自分の少年期を自ら葬るわけですね。(映画では、冒頭シーンの数ショット、あるいはクレジット・タイトル前後の数ショットは、作品を読んでゆく上で非常に重要です。)

 夜が明けると身支度をして、新聞配達のために出かける時間です。ビリーの自転車は、兄が勝手に乗って行ってしまって無い。やむなく新聞店まで全力で走らなければならない。
 新聞店では、店主から「お前の地区の子供たちは手癖が悪いと評判だ」などといわれながら、チョコバーを一本くすねる。新聞配達の道すがら、牛乳屋のトラックから牛乳とチーズをくすねる。ほぼ毎日、こんなことを繰り返して常習化しているようです。
 配達が終わって時間が少し余ると、丘の上でマンガを読みふける。遅刻ぎりぎりで学校に登校しても、どこかうわの空。

 そんなビリーには、農場で見かけたハヤブサへの密かなあこがれがあります。ヒナを訓練して育ててみたい。巣を見に行こうとクラスメイトを誘っても、誰も誘いにのらない。孤独な少年です。けれども、目標には一途なところがあって、ヒナの育て方を学ぶために古本屋で本を万引きする。

 チョコバーや牛乳をくすねるのと同様に、盗みはもちろん犯罪ですけれども、ここでは、ビリーが少年なりに生きるためという理由で、万引きも正当化されます。
 ちょっと、『犬の生活』などチャップリン映画を思い起こさせますね。“誰でも生きる権利がある”という、社会の底辺からの主張です。

週末、土曜の夕方

 週末、土曜の夕方、家のリビングでの会話と、パブの状景。ふたつのシーンは、ビリーの家族関係と、その社会のなかでの位置をあらわに見せます。
 
 かなり殺伐とした家庭ですね。

 兄のジャドは弟のビリーに対してひたすら粗暴。母親もビリーをかまっている暇はない。兄も母も、週末のささやかな楽しみのために、少しおめかしをして外出の用意をしていますが「酔いつぶれて帰ってこないで」「あんたが男を連れ込むからか?」という調子ですぐに口喧嘩になる。
 母親は「働きづめで、週末になるとこれ。もう行かない」とふてくされますが、それでも機嫌を直してジャドの後から出かけてゆく。その身支度の荒んだ感じ。ビリーへの「2シリング置いてゆくからお菓子でも買ってね」というせりふ。土曜の夜7時に子供に軽い夕食も用意できない。貧困とはこういうことなんだな、と考えさせられる情景です。

 ビリーは、ひたすらハヤブサについての本を読みふけっている。

 土曜の晩、町の大人たちはパブに行く。パブといっても田舎の炭坑町のことで、“店”というより、公民館が社交場になっている。アマチュアのバンドが、自作の唄やビートルズを唄って、ビールを飲んだり、ダンスに興じたり。ジャドとその仲間たちも、母親とその恋人も、同じ場にいて離れて席をとっている。狭い町なんでしょうね。

 このシーンで、母親は相手の男性に向かって、一方ではジャドが仲間たちのなかで、それぞれがいまの生活についての欲求を吐露するショットが交互に出てきます。
 
 母親は、「交際も楽しいけど、身を固めない?仕事に疲れたの」「2人の子供の将来が心配なの。この歳になると安定した生活を望むのよ」と訴えています。相手の男性の影は薄いですね。相手が切々と訴えているのに、「何も考えるな」と彼女の肩に手を回したりするだけ。ジャドが離れた席から、「その男を連れ込むか?」と大声で冷やかして、喧嘩になりそうになる一幕もあります。

 一方ジャドは、仲間たちのなかで「家に帰って飯を食い、風呂に入れば満足だ」「母親が誰と交際してもおれには関係ない」「おれは現状に満足してる」。
 “現状に満足だ”なんて言っていますが、少し後の、朝、炭坑に出勤するシーンで、坑夫仲間から「やぁ、調子はどうだ」と声を掛けられて、「最悪だ。仕事は地下だ」と答えている。これは、パブでのせりふとどちらが正直か?という問題ではないと思うんですね。刹那的に、その時の気分を口にしているだけで、どちらも正直なんです。

 炭坑夫の仕事は、日々の重労働です。賃金も安い。ジャドの気晴らしといえば、競馬で少しでも当てて、その週末、酔いつぶれるまでビールを飲むか、若いから年頃の娘を誘うか、刹那的な享楽に身をまかせることしかできない。明日の展望がひらけないという状態は、母親と同様ですね。

ケスの調教シーンとこの作品の映像について

 ハヤブサのヒナを家に連れ帰ったビリーが、手順を踏んで調教を重ね、ついに、ボタ山が背景に望まれる野原で、はじめて長い距離を飛ばせるシーンは、素晴らしいですね。物語の後半で、英語の先生が調教を見学に来るシーンと合わせて、最高のスペクタクルです。 

 特にロング・ショットの距離感が素晴らしい。

 物語後半の、ケスを自由に飛ばせながらエサに引きつける訓練のシーンでは、カメラ・ポジションを高くとって、ビリーをやや斜めから見おろすような俯瞰になります。そうすると、それまで視野から隠されていた丘の麓にひろがる町を一望するような広々とした空間がひらけて、その中を、ケスが高く舞い上がっては急降下を繰り返す。ケスと一緒にビリーの心も自由に空を舞っているかのようです。

野原での調教シーンから

 実際にハヤブサをどのように調教するかを、ビリー役の少年が会得していないと撮れないようなショットの連続で、カメラ操作によるごまかしがない、ということも手伝っていますが、何か実在=実際に起きているできごとに、カメラを通して、私たちも“立ち会っている”という感覚が生まれてこないでしょうか?

 カメラと対象の距離感が良い、と言いました。これは、作品の全体を通して言えることで、映像の“みずみずしさ”と深い関係があります。
 監督のケン・ローチ自身の言葉を借りれば、カメラ・ワークが「出しゃばらないで、控えめ」*なんです。カメラが自由自在に動き回り、ショットを連ねて映画独自の絵空事の世界を作り上げる手法とは、ある意味で、正反対の行き方で『ケス』は撮られています。

 今までお話した、冒頭のシークェンスでも、週末のリビングルームやパブの情景の描き方も同じです。カメラは「出しゃばらず」、ドラマが展開する場に適度な距離感で立ち会っている。この作品では、重要な人物の動きや会話が連続するような場面で、しはしばショットを分割しません。1ショットで撮られている箇所がいくつもあります。

 慣れない方が、こういうことを意識化するのは難しいことなので、私の話はわかりにくいかも知れません。が、『ケス』のような映画では、観終わったあと“虚構の世界”を楽しんだというより、なにか“現実の断片”を切り取って目の前に投げだされたような印象を与えられます。映画の空間と現実とのあいだに切れ目がなくて、空気が交流し合う…。
 「共感をもって、立ち会うこと」**とケン・ローチは語っていますが、私たちは、“現実の断片”を前に、ある生き方を迫られているとも言えます。

 第二次世界大戦直後のイタリアで生まれた<ネオ・リアリズム>と呼ばれる潮流が、このような映画の源流にあります。ケン・ローチも、この系譜に連なる監督ですが、映画史にかかわる話は、また別の作品で折に触れてすることとしまして、先に進みます。

3人の教師

 『ケス』の物語には、3人の教師が登場します。
 先に登場するふたりは、教育の制度やあり方に対する辛辣なカリカチュアになっている。が、ケン・ローチのまなざしは、ユーモアをたたえています。

 第一の例は、体育の教師。授業でサッカーを教えるのだが、自らマンチェスター・ユナイテッドのスター選手のユニフォームを着こんだサッカー狂。クラスをふたつのチームに分け、片方のキャプテンを気取る一方で、先生だから審判も兼ねちゃう。(背番号“9”のチャールトンとは、現役の選手ではなくて、ひと世代昔の選手なんでしょうね。)
 ハデに転んで見せてPKを取り、シュートを決めると、まるで陶酔してスター選手になりきっています。相手チームのキャプテンの生徒には体当たりを喰わせて転ばせ、ヤジられると「退場!」にしてしまう。ほとんど専制君主のような振る舞いですが、結局1-2で負けて「ムカつく」なんて言っている。
 酷いのは、外は凍えるような寒さだったのに、シャワー室でビリーを閉じ込めて冷水を浴びせるその動機が、単に負けた腹いせだということですね。
 教師として生徒の前に立とうとする以前に、自分自身が子供っぽい、困ったタイプの人です。

教育のあり方への辛辣なカリカチュア

 第二の例は、校長ですが、朝の全校生徒を集めた礼拝の時間に登場する。
 ひとりの女子生徒が、代表で聖書を朗読します。マタイによる福音書の一節で、「小さな者」への愛を説くキリストの言葉です。

あなたたちは、これら小さな者のひとりをも軽んじないように気をつけなさい。…ある人が100頭の羊を飼っていて、そのうちの一頭が迷い出たとすれば、その人は99頭の羊を山に残して、迷った一頭の羊を捜しに行かないであろうか。そしてもし、それを見つけたら、その人は迷わなかった99頭の羊よりも、その一頭を喜ぶであろう。…

マタイによる福音書第18章10-14節
 

 ここで説かれる「小さな者」とは、幼い子供に限らない。社会的弱者とか、いろいろに解釈できますが、この聖書の章句は、前後して登場する3人の教師を照らし出し、教育のありかたを批評・批判していると同時に、『ケス』のドラマのバックボーンになっているものだと思います。
 
 校長は、生徒に対してがなりたてては罰をあたえる。礼拝の時間の後、何人かの生徒が校長室に呼ばれて罰を受けますが、最初につまみ出される体格のいい生徒は咳をしたという理由だけで―しかもそれは当人ではない―最初から不良として疑いの眼で見られている。次がビリーで、ケスのことを考えて、ついうわの空になって「座れ」の指示が聞こえなかった。タバコを吸っているのが露見した別の生徒たちは、ともかくとして、校長先生に伝言をことづかって来ただけの下級生も、巻き添えを喰って罰を受けます。
 
 「昔も、いまと同じように指導は厳しかった!しかし、その分、人間的に成長もした。卒業しても道で呼び止められて笑い話にもなる。いまはどうだ?道で私を見かけると、中古車のクラクションを鳴らす!」。
 言うことが滑稽なので、これには小さな下級生も含めて全員がそっと吹き出します。が、校長は、はなから生徒たちを十把ひとからげに決めつけて、むちで打つことしかできない。生徒ひとりひとりが見えていない、見ようとしない。だから、自分自身を時代遅れにしてしまっているのかも知れませんね。
 
 ビリーが校長室から教室に戻ると、“Fact and Fiction”(事実と虚構)というテーマで授業が行われている。3人目の教師として英語の教師が登場します。
 この授業のシーンは、前に出てきたパブの情景の撮り方と共通する、即興的な面白さがあります。
 ひとりの女子生徒が、「昨夜、友達とパーティに行って夜中の3時まで踊ってたの。そしたら女の人が来て『静かにしないと警察を呼ぶわよ』。『呼べば?』と言ったら本当に警察が来ちゃった」なんて言ってペロッと舌を出している。与えられたせりふじゃなくて、即興演出で彼女の実体験を喋っている感じがする。

 ビリーは例によって、うわの空になっているところを指名されて𠮟られますが、先生は叱りながらも、上手にビリーからケスの話を引き出します。ビリーは、クラス中をうならせるような見事なスピーチをします。
 取っ組み合いの喧嘩のシーンでも、仲裁に割って入って、ビリーの言い分をきく。その聴き方。生徒の立場に自分自身を置いてみて、話を聴きとろうとしています。だから、ケスの調教を見たいと出かけてきてくれもする。普段クラスメイトともつき合わず、他の先生からも味噌っかす扱いされているビリーから、他人の目に隠されている光ったものを見出す。

 この英語の先生がケスの調教を見学するシーンの素晴らしさについては先ほど述べましたが、すっかり感心しきった先生とビリーが鳥小屋のなかで交わす会話も素晴らしい。

「なぜか小声になる。教会の中にいるようだ。」
「タカが敏感だからですか?」
「違う。タカへの敬意の表れだ。」
「そうです。
 ビリーのペットだと皆は言うけど、ペットじゃない。
 飼いならしたのかと聞かれるけど、
 僕に慣れただけ。
 タカは、人間など気にかけていない。
 そこが、好き。
 僕はケスを見ているだけでいい。」

 映像は、ふたりがケスを見つめながらのデリケートな会話を、画面の手前に止まり木のケスをレンズの焦点をはずして見せながら、1ショットで撮っています。これをクロース・アップで分割して撮ったら簡単に“作りもの”になってしまう。ここでも、カメラが出しゃばらず「共感をもって立ち会って」います。

カメラはふたりのデリケートな会話を邪魔しない


物語の帰結へ

 物語の帰結は、悲劇的です。

 ビリーは、ジャドから5シリングで競馬に賭けるようことづかっていたのに、馬券売り場で「そんな馬あたらないよ」と聞かされて、その金でフィッシュ・アンド・チップスを買い食いする。ところが、賭けなかった馬が大当たりして、激怒したジャドは、ケスを殺してしまう。

 兄弟の相克のなかに、生活の真実があらわになります。
 ジャドは「馬に賭けていれば、16ポンドになった。一週間休めた」と言う。ビリーからすれば、たったそれだけのためにケスを殺したのか、ということになるのかも知れませんが、ジャドの立場からすれば「一週間の休暇」は切実なんです。
 ジャドの性格は、粗暴で刹那的ですが、陽の光が届かないあなの奥で、炭塵にまみれて石炭を掘って、週6日働いて16ポンドとして、一日3ポンドにもならない。自分のほかに母親もフルに働いて、それでも家計は充分じゃない。一週間、太陽の下できつい労働から解放されることが、どれだけありがたいか。

 ジャドは、ケスを殺そうとして殺したわけではない。「放そうとしたら襲ってきた」から殺してしまった。粗暴ではあっても、決して残忍な性格の持ち主ではありません。物語の中ほどの、出勤と入坑のシーンをみてもわかるように、ごく平凡な労働者です。

 ビリーは、ゴミ箱の底からケスの屍骸をすくいあげ、ひとり、ケスを埋葬します。ビリーの未来には、何が待ち受けているでしょうか?二週間後の就職です。就職で、ビリーの将来には道が拓けるでしょうか?炭坑に行く以外の進路はないんですね。

 この映画で描かれた1960年代末のイギリスでは、<イギリス病>と呼ばれた、経済の長期低迷が続いていました。
 物語の終盤に、就職指導員との面接シーンがありました。廊下で順番を待っていると、クラスメイトが母親同伴でやってきて、並んで順番を待つ。母親が息子に「事務職志望と言いなさい」なんて諭していますが、ビリーが「君の志望はなに?」と聞くと、「炭坑」と答える。母親よりも息子のほうが、自分の力ではどうにもならない現実を受け入れているようです。

 一方、ビリーはというと、どうも、目の前に差し迫った現実と向き合っているようには見えない。そのことは、廊下で順番を待っている時の仕草や、面接の際の態度でもわかります。まったくうわの空で就職指導員の話を聞いていない。ただ「炭坑」という進路を示された時だけ、反射的に「イヤだ」と言う。ケスのことが心配で、それどころじゃない。

 ケスは殺されてしまいますが、卒業して就職すれば、もうケスとは一緒にいられなくなるわけでしょう?だから、ほんの一時で覚めてしまう夢を見ているのと同じなんです。

 だからこそ、この映画の冒頭のショットは、「まだ寝ていたい」とつかの間ベッドにうずくまるビリーの寝姿でなければならなかった。はじめに述べたとおり、ラストシーンは、冒頭シーンと対応していて、ケスの屍骸を埋めるビリーは、自分の少年期を葬り去っているように見えます。
 ビリー自身は、そのことをどれだけ自覚しているか?たぶん、さらに大人へと成長した後、振り返って、そういうことであったか、と覚ることになるのでしょう。

ビリーは、自分の少年期を葬り去っていることに気づいているだろうか?

 ただ、この物語の帰結が、ビリーの将来のつまづききとなるような感じはしません。現実は八方塞がりだけれども、明るさが、どこかに残っている。
 それは、ビリーがケスを育てたことを通じて、その後の自己形成の糧となるような、心の奥深くに響く体験を手にしていることが、わかるからではないでしょうか?
 
 私が、この映画を初めて観たのは、20年以上前(1996年)ですが、いま、改めてこれを観ると、20数年前よりも、この作品が、より身に迫って切実に感じられる気がします。
 『ケス』は、階級社会が強く残ると言われるイギリスの ’60年代末を舞台に、格差が固定化してしまって、下積みの人びとが、なかなか自分たちの貧しい境遇を抜け出せない現実を告発しています。が、当時のイギリス社会が、いま、より身に迫って感じられるということは、それだけ、日本でも格差と貧困が拡がって、当時のイギリス社会が重なって見えるようになってきた、そんな風にも思えます。

 皆さんは、どのように感じられたでしょうか?


追記(1)

“dinner time”の意味について―ビリーは毎日ちゃんと食べていない。

映画のせりふのなかにでてくる“dinner time”の意味について、字幕に翻訳の混乱があります。英語の先生が、ケスの調教を見たいと言って時間をきく。ビリーは“dinner time”に調教をするんだと、答えています。これをNHK-BS版やDVD版の字幕では「夕食」や「食事」と訳していました。「食事」で間違いではないんですが、その日の朝の礼拝の時間に校長先生が、「就職面接は今日の放課後だ」と告げている。これは昼食なのか夕食なのか?おかしいな、と思って辞書を引いてみました。

dinnerとは一日の中心的な食事《昼食または夕食》の意。
英・米の子供や勤労、中・下層階級では多く
 breakfast — (midday)dinner ― (tea) ― supper
有閑・上流階級では、多く
 breakfast — (midday)lunch ― (tea) ― (evening)dinner
の順に一日の食事をとる。

研究社 リーダーズ英和辞典 

ここでの“dinner”は昼食の意味なんです。するとビリーは、昼休み家に一度帰って、ケスの調教をしていることになる。「給食(dinner)がでる」という生徒の会話がありましたから、あるいは、ビリーは給食費が払えないので、昼休み2時間ぐらいの間、家に帰っていたのかも知れません。
ビリーは、中学の4年間、体操着を買ってもらえなかった。シャワー室でズボンを脱ぐと、パンツもはいていない。
“dinner time”に給食費が払えないで、家に帰って、その時間ケスの調教に夢中になっている、ということは、毎日ちゃんと食べていない、ということが想像できます。

追記(2)

ビリーの境遇について、監督のケン・ローチの言葉を紹介しておきます。

あの時代、北イングランドで、ビリーのような少年たちは、非熟練労働者として必要とされていました。映画を観た人びとは私に言ったものです。
「彼は動物園で就職することはできなかったの?」
この質問は、まったく的外れです。なぜなら、もし炭坑に非熟練工として行くのがビリーでないとしても、誰かが苦境に立つのです。
世界は、ビリーや彼のような人びとに、その役割を果たすよう強要するのです。

“Loach on Loach”***

『ケス』(1969年、イギリス、ケストラル・フィルムズ)
製作:トニー・ガーネット
監督:ケン・ローチ
原作:バリー・ハインズ
脚色:バリー・ハインズ、ケン・ローチ、トニー・ガーネット
撮影:クリス・メンゲス
音楽:ジョン・キャメロン
出演:デヴィッド・ブラッドレイ、フレディ・フレッチャー、リン・ペリー、コリン・ウェランド、ブライアン・グローヴァー、ボブ・ボーウェズ、ほか

* Edited by Graham Fuller : ”Loach on Loach ”, Faber and Faber, 1998, p.39

“We talked a lot about that and decided that the effort shouldn’t be to make the camera do all the work, but should be to make what is in front of the camera as authentic and truthful as possible. The camera’s job was to record it in a sympathetic way and to be unobtrusive, not to be slick.  …“

** Jacob Leigh : "the cinema of KEN LOACH  art in the service of the people", Director's Cuts,   Wallflower Press 2002, p.60

“I was aware at the time of not trying to let the camera do the work, but let the people in front of the camera tell the story, so that the camera was a sympathetic observer. And you had to get what was in front of the camera absolutely right and true, and if it was right and true, and you photographed it sympathetically, then it would work.”


*** ”Loach on Loach ” p.43-44


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