もっと不真面目でいい

「自分が不安」という理由だけで守る規律に、何の意味がある

 言いつけを破ったっていい。それは時に、自分の中のポリシーであってもそうだ。律儀に規律を守らなくてもいい。その場の最適解なら。


 実を言うと、私の彼女もこのツイートの「妻」と似ていて、感情の起伏が激しい。同情するほどに。彼女はよく、私をみて「いつも一定でいいよね」というが、それは違う。私は彼女が羨ましい。
 私も、彼女のように僅かな感情の揺れをその場その場で表現して生きてみたい。その場で燃やし尽くし、一切の遺恨を残さない、そんな生き方が。

自虐オナニー

 最近、幼少期のことをよく思い出す。誰かに言われたこと、その時の私の感情。別にそれ自体は大したことはないのだが、その時の「感情発露の型」のようなものが脳に染み付いていて、感情は小さい頃と変わっていないという風に思わされる。

 何かドギツいことを言われても、相手にも非があるのに自分にだけ怒りを向けられても、相手の気分が優れないだけなのに理不尽に怒りを向けられても、私は「私がオカシイので、悪いのである。そもそも生まれてきたことが、悪かったのだ」と、どうしても思ってしまう。

 恐らく過去に、父や祖父に威圧的に怒られたこと・理不尽に怒りの矛先を向けられたという結果に対する原因として「私がおかしく、悪いことをしているので、怒られたのだ。生まれてこなければ、みな幸せに暮らしていたのだ」という結論をだしてしまったのが、原因だと思う。いつもそう思っていた。相談できる人も居ないので、独りで布団で泣いていたのを思い出す。

 なぜ涙が出るかと言われれば、「自責の念」の前では自分以外に悪者はおらず、自分が100%悪いためにあらゆる弁明は残らず「言い訳」になるので、喋れば相手から罵詈雑言を浴びるだけとなり、よって一切の言葉を発することができず、表出できない感情の行先は「涙」だけだからである。

 幼少期から感情をとにかく押し込めて、自責の念で自分の心に刃を突き刺していた。今もそれは変わっていない。寧ろ、そうすることである種「安心」しているのだと思う。上記の様に帰結すれば、取り敢えずは原因と結果が結びつくので、精神的には整合が取れるからだ。自分の中に「良い言い訳」ができるからだ。

 子供が親と似た人を恋人に選びやすいという話も、自分が精神的に「安心」するために、過去の親との関係性の中で醸成された「感情の型」にあった人を無意識に選ぶからという仮説が立てられる。

 だが何にせよ、この「良い言い訳」は間違った帰結だ。自分を責めるのは、根本的な解決にはなっていない。本来なら、自分が悪いことは認め、相手が悪いことは適切に伝え、相互理解を深めるのが良いだろう。自分が悪ければ、それを認め、謝罪し、次にどうするかを考えてやるのが良いだろう。なぜ私はそれができないのだろう。自分のよくないところを直すのも、相手に働きかけるのも、全て無駄だと思っているのかもしれん。あるいは、ただ勇気が無いだけか。そこに踏み出そうとすると、自分が非常に惨めになる。別に惨めでもなんでもいいはずなのに。
 なんだか惨めで何もかも面倒になって「死ねばいっか」みたいな帰結に落ちていく。まぁ、そんな度胸もないのだが。

 とにかく「言い訳」なのだ。自分とちゃんと向き合えていない。

 あぁ、私はこれをなんとかしていかないといけないのだな。




この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?