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『部活動』からはじまるスポーツはカルチャーを殺しているのか?

こんにちは。佐藤奨(さとうつとむ)です。

タイトルにて『部活動』からはじまるスポーツはカルチャーを殺しているのか?と強めの言葉で表現したが、つまり、今回の記事は、こういうことを伝えたくて書いた。

『部活動』からはじまるスポーツは、そのスポーツが持つ、本来のカルチャーの目を摘んでしまっていないか?という問いかけだ。

前置きから書くが、どういうことか、掘り下げていきたい。

マイナースポーツが『五輪種目』を目指すこと

昨日、ふとfacebookの私のタイムラインに、3年前の記事がアップされていて、以下のショーの様子が自分のタイムラインに出てきた。このときのショーでは、二子玉川ライズに、約3000人もの観客に喜んでもらえたが、そのときは、まだBMXフリースタイルは東京五輪に追加されることが決まる前だった。(BMXレースは2008年の北京五輪ですでに正式種目)

マイナースポーツが五輪種目化することで、ふと考えた。

マイナースポーツの多くは「五輪種目化」を目指す動きがあるが、五輪種目となったところで、アマチュアスポーツのままでビジネス化されていない競技や種目が多いことも忘れてはならない。本質的な「人気」を高めていく活動が求められる。そして「五輪種目化」されるだけで、人気が高まるワケでもない。

さらに、マイナースポーツが「五輪種目化」され「メダリスト」が輩出された場合、その競技の景色が変わるか?というと、そんな簡単なことでもないと思っている。ただし、メダリストが輩出された場合の一番大きな果実は、そのメダリストになった選手と、その種目の「認知」の獲得である。これはデカい。

メダリストが輩出されたマイナースポーツでは、そのメダリストになった選手と、その種目の「認知」の獲得が一番大きな「果実」だが、多くのプロスポーツがそうであるように、「認知獲得」だけで、簡単にビジネスにはならない。その認知をどう「マネタイズ」するか?を合わせて取り組む必要があるのだ。

ただ、マイナースポーツ団体のスタンスは
「認知がないのにどうビジネス化する?」
「そもそもビジネス化させるべきか?」
「メダリストが輩出される環境はどうつくるか?」
「環境構築の予算がない」
「ビジネス化させるにもそれにコミットして動ける人材獲得のお金がない」

などの問いがある。

つまり、マイナースポーツは、前提として、かなりカオスな環境だし、ビジネス軸で考えれば「無理ゲー」とも言える環境である。マーケットがないところで商売するのは難しい。これなら正解という動き方は存在しないとは思う。ただ、言えることは、マイナースポーツの普及は「街づくり」みたいなものだ。

『五輪種目化』することの弊害

私は、BMXという競技を通して、この6年半で「街づくり」をしてきた感覚だ。トップ選手の練習環境が必要で、世界基準コースを造成。初級者の受け入れのためにアマチュアの体験エリアを増築。競技の認知が大事とのことで普及イベントの創出。育成が大切だとのことで、クラブチームの創設。全部やってきた。

我々のこうした動きは、NF(協会:ナショナルフェデレーション)じゃなくても出来るし、補助金や助成金0円でもやれるということ。我々の活動は特異かもだが、上からお金が降ってこない状況で、いかにして活動資金を集めるのか。どうしたら人を惹きつけられるか?ということに向き合い取り組んできた。

どうしたらその競技に人を惹きつけられるか?ということに向き合い続ける中で、私も「五輪種目化」は正しいことと思い続けてきた。正式種目になることで注目されるし、もしメダリストが輩出されたら、この競技が多くの注目を集めることになる。と。

しかし、関わっている競技が五輪種目に正式に追加される様子を身近で感じていて感じたことがある。それは「五輪種目化」には、注目度が高まるという強烈なメリットの影に隠れた弊害についてだ。

マイナースポーツが『五輪種目化』することの弊害、それは、カルチャー軸の強いスポーツは、五輪種目化で、趣味の世界で楽しかったものが、急に競技の世界になったりしてバランスが崩れる問題も存在する。すでにあるコミュニティが、競技化で、別のバランスが生じるからだ。

これは、『五輪種目化』による弊害は、マイナーだから生じる課題なのか、というと、そうとは言い切れない。あらゆるスポーツを見ていく中で、一つのことに気づいた。『五輪種目化』でカルチャーに大きく影響を与えそうな競技と、そうではない競技がの”線引き”存在している、ということだ。

その線引きとは、『部活動』として教育の一環で行われてるような競技人口の多いスポーツなのか、部活動には基本的になく、趣味の延長線上ではじめた人が多いスポーツなのか?で景色が異なってくる、と捉えている。

趣味の延長線上ではじめた人が多いスポーツには独特の世界観、つまりそのスポーツ特有のカルチャーが宿っている。

『部活動』だと『ファッション性』が養われにくい

『部活動』として教育の一環で行われるようなスポーツは、皆が同じ制服やジャージ姿の中で行われるため、そこで『ファッション性』が養われにくい。さらに、教育の延長で行われるので、そうしたファッション性がなくなり、そうなると、画一的な雰囲気に押されてしまい、カルチャーが宿りにくい傾向があるのだ。

各国の文化を感じるときには、その服装が大きく影響するように、スポーツをする際の服装も、そのカルチャーに影響してると考えている。

逆に言えば『部活動』にあるようなスポーツの場合は、中学高校時代の、学校生活を想起させるものになっていて、そのスポーツというより、その部活動自体が『学校カルチャー』の中に内包されてしまうのである

競技人口の多いメジャーなスポーツの最初の接点は部活動であり、野球やサッカーなどのプロリーグでの接点の少ないスポーツの場合、部活での接点で終わってしまうため、部活に入っているようなスポーツのほとんどが『学校カルチャー』の一環としてその想起する場合が多い、ということだ。

この状況を、もし、そのスポーツのイメージをPRする立場として考えた場合、そのスポーツのイメージが、ほぼ全て学校生活の延長で見えてくることは大きな課題と感じるのではないだろうか

そして、そのスポーツの持つ、特有の何かに向き合い、そのスポーツの世界観とは何かを問うべきではないだろうか

スポーツとカルチャーのあるべき姿とは?

スポーツとカルチャーのあるべき姿とは何か。私は、その一つの例として、今のラグビーワールドカップからみて取れることではないかと思っている。

ラグビーと言えば、国民的に想起されるのは、30代以上を中心に、スクールウォーズをはじめとする学園ドラマのイメージだろう。

しかし今回のワールドカップのニュージランドのハカを代表とする、部族の舞。

筋肉隆々な男たちが、戦いの前に行うパフォーマンスをする姿。ラグビー特有だ。

さらに日本国内に観戦に訪れた方々のビールを飲みながら楽しむ姿。

今回のラグビーワールドカップにて、自然発生的に、世界中からそのカルチャーが持ち込まれている。そして、これらをホスト国といて受け入れている日本国民も、ラグビーが本来持っているカルチャーに驚きを感じる機会にもなっているのではないだろうか

ラグビーの本来の姿は、学園っぽさではない。もちろん、それを否定するわけではないが、学園ぽさに内包されてしまうと、本来のそのスポーツの世界観が見出しにくいのだ。

そして、これはラグビーに限らず、他の部活動に内包されているスポーツ、そして五輪種目化したスポーツが、改めて見つめ直すポイントではないかと考えている。

そのスポーツ特有の何か、そのスポーツの魅力、そのスポーツに本来宿っているカルチャーについて、今回のラグビーワールドカップ、そして来年の2020年東京五輪に向けて、改めて考える機会になると良いのではないだろうか。

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