僕たちは「コロナ縛り」にかかっていないだろうか
連休ももうすぐ終わりなので、今日は思うがままにキーボードを叩いてみる。
実は、5月に入ったあたりから、noteの更新頻度が段々と落ちてきている。今年は連休だからといって、何か特段目新しいこともなく、なかなか発信のきっかけが見つからないというのは、自分でもなんとなく分かる。
いや、そうは言っても自分なりに色々と物を買ってみたり、本を読んだり、普段はしない料理なんかもしてみたりしている。
それらをネタに何かを発信する、ということもできるはずだ。
でも、実際それらで何かを書こうとすると結構苦しかったりする。前に書いた記事も、短い文章の割に、書く内容に本当に悩んだ。記事が書けなくなってきている理由は何なのだろうか…?
原因は「コロナ縛り」にあるのでは?
そこで思ったこととしては、発信のもととなるネタが基本的には変わっていないということだ。先にも書いたように、この連休の間も、我が家の環境は少しずつ変わってきてはいるものの、基本的にそれらの変化は「外出自粛生活」というところから端を発している。出元が同じ、というわけだ。となると、自分の中でnoteを書くとすると・・・
自粛生活なので○○をしてみた
→結果こうだった
→自粛生活だけど○○的なのもいいね/いまいちだね
みたいな、感じになる。常に「自粛生活」や「Withコロナ」を基準の軸にして、やったこと、感じたことを書いていく、ということだ。「コロナ縛り」と言ってもいいのかも知れない。
とは言え、「コロナ縛り」は僕たちの思考を加速させてくれるメリットもある。例えば、昨日も関東地方では緊急地震速報が発報された。この際、多くの人が「今、大規模な災害が起きて自宅からの避難を余儀なくされたら、どうなるのか」について関心と不安を持ったはずで、これから「大規模災害×コロナ」も1つの情報発信のテーマになってくるだろう(避難グッズはこういうのがいいよ、とか)。
そういう気づきも生まれやすいから「コロナ縛り」は決して悪くはない。むしろ、今絶対に必要な視点、観点だと言える。とは言え、同じ視点で考えると、思考や結論はどうしても似かよってくる。そのため、記事に落とすと構成や結論が毎回ほぼ同じになってくる。「これ、前に書いたことと同じじゃないか…?」とか「これ、自分が発信しなくても良くないか…?」という思いが頭をよぎり、記事を書く手が止まってしまっている。自分なりに考えてみて、きっと自分はこういう状況なんだろうな、と思った次第だ。
いったん、「コロナ縛り」を外してみたらどうか
たぶん、これが今日の結論になる。自分に言い聞かせる形ではあるけれど、「コロナの時代だから~~」という枕詞を、いったん外して発信してみたらどうだろうか。これは、Beforeコロナの目線で考えるということではない。もっとシンプルに「コロナの文脈」で発信することを、意図的に避けてみてはどうか、ということだ。表現の前提、インプットをもっと自由にしてみる、ということかもしれない。
「コロナ縛り」をどうこう~と書いている時点で、コロナに縛られているわけではあるけれど、「noteを書くことにちょっと疲れてきたな」と感じる人がいたら、一度自分の発信が「コロナに縛られていないか」振り返ってみたらいかがだろうか。
もしサポートいただけましたら、妻に甘いものでもプレゼントして、それをまた記事にしたいと思います。