【学校教育考】他人の期待を満たすように振舞ってしまうこと、について

無意識に,話している相手が自分に期待していることを言葉の端から感じ取って,それを満たすようにふるまってしまう。

じぶんにその癖があるのには数年前にうすうす気づいていて,つど都度,じぶんの思いを汲み取れるよう,練習してきたつもりだったのだけれど,ちょっとコンディションが良くないと,無意識にわたしは自分を明け渡す。

搾取の恰好の標的だ。

女性として,カスタマーとして。
私はわたしの時間に,いとも簡単に搾取を許す。

要は,人より鋭敏なところのある聴覚や受光器官に,雑多な情報が波のように押し寄せるような状況――しかもそれはままにあり,新しい人や新しい席次や新しいスケジュール等々が押し寄せる新学期の学校や,いいなと思って服を眺めているとヒュッとやってきてインプットされた情報を「模範的な」店員がまくし立てその頭上から煌々と蛍光灯がなんちゃらルクスの眩しい光を容赦なく投じているとき――に置かれると,『自閉症だったわたしへ』シリーズのドナ・ウィリアムズの言うところの「感覚遮断」に陥り,「自動運転」になってしまうのだ。

「自動運転」のわたしは,「相手の人間が自分を通して求めていること」を達成し,「相手を喜ばし,賞賛や自分を認めてくれる言葉をかけてもらうこと」を忠実に達成しようとする「おりこうさん」。

だって,相手に都合のわるいことや相手の理解の及ばないことをしでかして,「嫌われたり」「変わり者だ」と思われようものなら,のけ者にされ,こちらがわるいと指摘され,みんなから後ろ指をさされ,ひどくみじめな思いをするのはこちらなのだから。

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そう,そうやって「多数派」はわたしを併合してきた。

我ながらばかなことに,それにわたしは迎合してきた。

でも,その「わたし」が小学校低学年の無力な女の子だったら,そのことを誰が,ばかにすることができるだろうか?

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下克上だ,と思っている。

そうやって,わたしの変わったところを少しでも目にしたら,村八分みたいにして,しかも先生のような権威のある人が先頭を切って,そういうことをわたしに対して行ってきたこと・それを許容するような社会というものに対して。

大きく,静かな怒りを感じている。

同胞が,そういう中で今日も自分の個性をつぶして「合わせる」よう,「きょういく」されてゆくような学校教育に,芯から心を痛め,わなわなと身震いするような気持ちでいる。


同時に。

でも,全員が通過する「義務教育」や「公教育」であるからこそ,掬い上げられるような育ちをするほかのない子どもが居るだろうことも痛切に,悟性は告げていて,そこがあまねく全うなものになるよう力を尽くすのが,最も難解でありながら目の前の自分の課題であるとも理解している。

それは前述のような性格をもったシステムの中に,かような自分を投じるということでもあるから,正直スーパーシンドイ。のだけれど。

そんな中でも,捨てる神あれば拾う神,で忍耐づよく手を差し伸べてくださった恩師もいたから,その辺や学資を出してくれた両親や祖父に報いるために,わたしはきっと頑張れるし,大丈夫。

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どうか,いろんなものさしが許容され,受容され,個性が本当の意味で受け入れられ,伸ばされるような教育やイデオロギーが,どん,とメインストリームに据わるような,そういう時代であってほしいな,と,広汎性発達障害・自閉スペクトラム症グレーゾーン濃いめ(たぶん多数派のフリをできる「高機能」群と呼ばれるある意味ポンコツ)で,さんざん二次障害を抱えるほか術がなく苦心してきた当事者として,風の時代とやらの本当の訪れを,心から願っている。



おわりに

これを書こうとしていたら,かなこさんの読書感想文(下記リンク)が目に入りました。

52ヘルツのクジラも,きっと一人ではなく,地球の裏側か,もしくは別の銀河には,同胞がいて,同じ感覚を分かち合えると,信じていたい。



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