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「自立活動」が教育全般に与える示唆

 「運動障害教育学」第6回は、自立活動についてだった。

 自立活動とは、特別支援教育において「本人が障害による学習上または生活上の困難を主体的に改善・克服するために必要な知識、技能、態度及び週間を養い、もって心身の調和的発達の基礎を養う」ために行われるとある(平成29年4月公示の指導要領)。簡単にいうと、障害があっても自分の持っている力を生かしてより良く生きていくために必要なスキルや態度を身に着けたりする活動、ということだ

 特筆すべきなのが、そうして「よりよく生きていこう」とする「態度」そのものが、この自立活動の目標になっていることだ。大多数の人と比べて欠けているところはあるけれど、自分の持っている他の力を使ったり、人に助けてもらいながら、世の中と関わって生きていこう、という姿勢

 自分の能力や身体的不自由が人並みよりも欠けている中で、そうした前向きな心を保っていくには、きっとその人の心が充電されていないと難しいだろう、と思う。なぜなら、満たされない心は人への愛着を求められないし、したがって社会とも関わりたいと思えないからだ。つい、数年前までの私が、そうであったように。そして子どもがそういう心を持てたとしたら、家族をはじめとする周りの人の途方もない愛情とケアの賜物何だと思う。

 私の頭は敷衍する。

 「自立活動」の考え方が必要なのは普通教育も一緒ではないか?能力に得意不得意があるのは、誰でも、どんな人でも一緒だ。学習能力でもそうだし、人とのコミュニケーション能力でもそうだ。そういう不得意を持っていても、自分の持っている「できる部分」の力を生かして、より良く生きていくために必要なスキルや態度を身に着けていく。その時間と場所を子どもに保障するために、私たちは子どもたちを学校にやる義務をもっているのではないだろうか?決して、受験という統一の物差しに合わせるために、その度量衡に合う人材の選別のために、教育が行われているのではない。そう信じたい。

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 今回コロナでオンライン授業というのをする側、される側両方から経験した結果、オンライン授業は「熱」に欠けると感じた、という話を以前書きましたが(「熱を伝える、しごと」)、もう一つ思っているのが、「受験対策のための効率的な情報伝達のための授業」は、ある程度機械的に代替可能なのではないか、ということです。それは受験対策業界ナンバーなんとか、の予備校大手のカリスマ講師による授業動画の配信によって可能なのかもしれないし、あるいは将来的にAIでもある程度可能なのかもしれない気もしています。それが意見や熱のない、情報伝達を主な目的とする授業であれば。

 じゃあ、人間の「先生」が特化していけることって何だろう?というと、一人ひとりが「自分の持っている力を生かしてより良く生きていくためのスキルや態度を身に着ける」ための個別の学習計画を生徒と一緒に作成し、それに伴走するコーチングのような役割なのではないか。

 中学校の義務教育のいろはも過ぎたら、それでいいんじゃないか。入試を頂点とせずに、本当の意味で個人に必要な学習ができるような学校体制に、私たちは移行可能なタイミングにさしかかってきているのではないか。そんな風に、小さな希望を、勝手に、抱いています。

(2020年6月4日記)


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